この大庄村の役場が置かれたのが口の開地区で、1937年(昭和12年)に建てられた大庄村役場は、現在も大庄公民館として使用されています。
ということで、公民館から西へ200mほどのところにある口の開(くちのびらき)公園です。
公園入口には、ペンギンのタイル画が付いたトイレがあります。
しかしよく見ると電線の上に止まっているようでもあり、ペンギンではなくツバメなのかも知れません。
もう一方の入口付近には、尼崎生まれの真言僧にして国学者・契沖の歌碑があります。
歌の内容は武庫川の河口に延びる砂嘴の美しさを歌ったものだということなので(解説にそう書いてありました)、17世紀には、この付近にそうした景色が望めたのかも知れません。
武庫の浦のわだのみさきによる浪の ここにもかくる天乃橋立
『契沖と本碑の歌』
本碑は、契沖研究会創立15周年の記念として、寛永17年(1640)、尼崎藩主青山幸成に230石で仕えた下川元金の三男として、城内に誕生し、水戸光圀の委嘱で『万葉代匠記』などを論理的実証法で著し、また、歴史的仮名遣を発見・体系化した『和字正濫抄』を述作して、日本の学問の近代化への道を拓いた日本の知的財産であり、地域の誇りである契沖を顕彰するものです。
碑表の画像は、暑き日の契沖の武庫の浦望見の図(イメージ)。歌は、契沖が29歳の春の頃、兄元氏の仕える松平直矩が村上藩(新潟県村上市)15万石から姫路藩(姫路市)15万石に移封になった時、兄に養われる母を見舞う為、高野山から中国街道を通り、姫路まで行っていますが、その時に実見したであろう武庫の浦の絶景を詠んだものです。
歌は、契沖の歌集『漫吟集類題』に、「名所を詠める歌ども」と題した歌群の一首で、「武庫の浦の わだのみさきに よる浪の こゝにもかくる 天の橋立」(武庫の河口部の海浜に連なるわだの岬に、うちよせる波は、天下の名勝丹後の天の橋立(京都府宮津市)をここ武庫の浦にもかけていることだよ(かけ=波を「掛け」と天の橋立を「架け」とを掛詞とする))とあります。武庫川が流す六甲山の土砂が武庫川の河口部に堆積し、長い砂嘴を形成していた当時の雄大な河口部の情景が彷彿とします。
平成23年11月3日
契沖研究会
さて、入口付近で足を止めてしまいましたが、公園の中はと言いますと、区画のかなりの部分を高圧鉄塔に取られており、残ったところが遊具広場になっているような構造です。
遊具広場には滑り台が2つ、ブランコ、砂場などがあります。
2つの滑り台は、それぞれラダー遊具、ジャングルジムと一体化したもので、ちょっと変わっています。
どちらも年季の入った金属製で、それ自体はどこにでもあるものですが、工都・尼崎の公園で見かけると何故か「工業」のイメージを感じ取ってしまいました。
(2013年1月訪問)
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