千代田区三番町にあるこの公園、横にある交差点名や通称は「東郷公園前」ですが、正式な公園名は「東郷元帥記念公園」です。
最近は歴史の教科書にも載らなくなったと聞きますが、日露戦争の際に連合艦隊を率いてロシア・バルチック艦隊を破って名を挙げた東郷平八郎が1881年(明治14年)から1934年(昭和9年)まで暮らした邸宅の跡で、没後に東郷を顕彰する東郷元帥記念会を経て東京市の所有となり、1938年(昭和13年)から記念公園となったものです。合間のことはよくわからないのですが、公園になる以前は邸宅のまま記念館だった時期もあったようです。
が、実は大きく上下2段に分かれた現在の公園のうち下の段は、関東大震災からの復興公園として1929年(昭和4年)に開園したもので、今までも当ブログに何度も登場している小学校と公園がセットで整備された形のものです。
その頃は町名変更前で所在地が上六番町だったので「上六公園」という名前でしたが、東郷邸跡が付け加わってから現在の公園名になりました。
そう考えると、海軍元帥・東郷平八郎も晩年の5年ほどは邸宅のすぐ横に小学校や公園があったわけで、なんとなくその時代の町の様子を思う縁となる気がします。幕末から明治を軍人として生きてきた老人は、昭和の子供たちをどのような眼差しで見守っていたのでしょうか。
では、まずは東郷邸であったという公園上段から。
入口を入ると前足の折れたライオンが出迎えてくれます。東郷元帥を崇拝する甲斐大蔵という実業家が寄附したものだということを書いているサイトを見かけましたが、いつ頃からここにあるのかという詳しい経緯はわかりません。
ただ、台座も含めた傷み具合から、長年の間この場所を守ってきたものであることは想像されます。
公園の中程には、公園の由来を示した石碑(左)と、なぜかその横に力石(右)があります。力石についての解説板もあるのですが「由来は詳らかではありません」と、これまた東郷邸に関係あるものなのかよくわかりません。
ということで、ハッキリと東郷邸を偲ばせるものは由来書きの石碑1つだけです。
記念公園という割には寂しい気もしますが、東郷本人は生前に自身を祀る神社(東郷神社)の計画があることを聞いて怒り嘆いたような人物だったそうですので、この何もなさも清々しくて良しとしましょう。銅像は横須賀の三笠公園にありますし。
ではそのほかに何があるのかと言えば、この界隈ではかなり遊具が充実した公園となっています。
ブランコ、レール方式のターザン(おかしな表現ですが)、ロケット風の複合遊具、巨大なクライミングウォールのある複合遊具、ドーナツ型トンネルの付いた砂場、幼児用プールなど盛りだくさんです。そのほかに健康遊具の並んだ広場もありますので、晴れていれば近くの保育園や幼稚園から多くの子供たちが集まってきます。
さて公園下段に目を移すと、開園当時の姿をある程度残した形で、区立九段小学校と一体的になった広場が現れます。大きなイチョウの木の右が小学校、左が公園です。
校舎と公園との間に柵などはなく、校舎を出ればすぐ公園です。
公園施設などに開園当時のものは残っていないようですが、震災復興小公園の定番、ラジオ体操台を兼ねたパーゴラなど当時のイメージを踏襲した施設があって雰囲気は伝わってきます。
東郷平八郎のイメージを求めて訪れる人には物足りないかも知れませんが、公園好きには行く価値のある場所だと思います。
ところで、東郷平八郎と公園の話をもう一つ。
大正時代、すでに東京都心の墓地は不足気味になっていました。そこで当時の東京市は市域(現在の23区に相当)の外に広い墓地をつくることにしました。このうちの一つが多磨霊園で、わが国初の公園墓地として1923年(大正12年)に開園しました。
しかし市域から離れていることで人気はイマイチだったのですが、ここに東郷平八郎が埋葬されたことで一気に有名になったというエピソードがあります。まぁ実際のところは、開園から10年が経って公園の景観が整ってきたことや、鉄道網の強化など別の要因もあったとは思うのですが、東郷の人気ぶりを示す逸話だと思います。
ちなみに東京市の公園課職員として多磨霊園の整備をリードした井下清は、この頃の様子を「東郷元帥の国葬を迎ふるに至っては、静寂なる郊外の霊域は日々幾千万の参拝者を大型バスにて輸送さるるに至って、神聖な霊域も紅塵万丈をあぐる如きこととなり、市内街路の如き管理を必要とするに至ったほど」(井下清(1937),『庭園式墓地の再検討』公園緑地1巻3号)であったと記しています。
「日々幾千万の参拝者」って、時代っぽいけど伝わる言い回しですね。
●千代田区による公園紹介ページ
●上六公園ほか震災復興小公園に詳しいページ
(2012年11月訪問)
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