古くからの信仰の山でいくつもの神社が祀られ、また花見や紅葉狩りなどの遊興地としても知られており、明治の頃から公園となっています。
こうした古くからの名勝地公園にはよくあることなのですが、実際に行ってみると社寺有地や料理旅館などの民有地、国有林などと公園との敷地の境界がハッキリしません。もっとも大多数の利用者にとっては、なにか事故でも起こらない限りは、どこが誰の管理地かなどというのはあまり重要ではないと思いますが。
さて、福島地方検察庁や職安がある山裾の一角から少し歩くと、いつの間にか信夫山公園に入っています。じつはこのあたりは、現在の信夫山公園が形づくられるよりも以前、1874年(明治7年)にはじめて公園が開かれた場所にあたるということで、いわば信夫山公園発祥の地と言える一角のようです。
日本の都市公園制度は明治6年太政官布達に始まるとされますが、その直後の5年間ほどは、全国のおもに県庁所在地で城跡や名勝地が公園に転換された時期にあたります。明治の新しいまちづくりを進めるためには「公園が不可欠だ」という思想が一気に広まったとも、一種のブームだったとも言えます。
公園の入口近くに「黒沼跡」という碑の建つ噴水池があります。この写真では動いていませんが、なにしろ噴水池なので、碑に書かれた「片目の鮒がすんでいた」ような雰囲気は皆無です。
少し坂道を登っていくと、いくつかの広場があります。訪れたのは初冬でしたが、まだ紅葉がきれいでした。
このあたりには、以前は動物園があったということです。
仕事の合間にふらりと歩いていけるのは、護国神社のあたりまでです。ここから先、もっと山奥に行くと、湯殿神社、羽黒神社、月山神社があり、その周りも信夫山公園の区域になっているはずです。
明治中頃に護国神社(戦前は招魂社)が整備された影響か、周辺はなにかとメモリアル的な役割を果たす場所になったおり、多くの記念碑や顕彰碑、歌碑、句碑等々が建てられています。
例えばこちらは吾妻山殉難記念碑。
1893年(明治26年)に福島・山形県境付近にある吾妻山が噴火した際に、観測調査にあたっていた農水省の三浦技師、西山技手が噴火に巻き込まれて亡くなったことの記念碑です。この事故は、日本火山観測史上初の殉死だということです。
こちらは養兎記念碑。
50年ほど前に福島県の養兎産業がどのような状況にあったのかはよく分かりませんが、「養兎発祥○周年」といった理由ではなく「うさぎ年だから」記念碑を建てたというのが豪気です。
●養兎記念碑
本県の養兎は大正の始め愛玩用を兼ねて飼育されて、その後副業として普及しはじめた。県も大正十四年に種兎七十番を県内十の養兎組合に貸付け、特に昭和初期には農村経済更正事業の一環として全県下に普及を図り、不況打開に大きく貢献した。
他方、昭和八年に養兎組合連合会が結成され種兎の組織的改良生産、初の共同出荷など一連の事業を始め、昭和十四年には毛皮用成兎の飼育は四十八万頭をこえ年間百万枚の毛皮出荷を記録し、また昭和十七年頃からアンゴラ兎の飼育も普及し年間一万ポンドの兎毛を生産して全国的に優位を占めるに至った。
戦後の養兎事業は壊滅的打撃を受けたが、いち早く立ち直り、兎毛皮、兎毛及び種兎の輸移出がさかんとなり農家所得の向上と外貨の獲得に寄与した。
県養兎組合連合会も昭和二十八年に再発足し、更に県種兎登録協会の創立をみて本県の兎改良は更に進み福島の兎として再び全国にその名をうたわれるに至った。
また昭和三十七年に県は集落養兎事業を通じて企業的養兎の育成に当り、養兎も農業構造改善の一翼を荷う事となった。
本年は卯年でもあり、ここに本県養兎発展の経過を誌し養兎振興に尽くされた人々の功績を永く記念する為この碑を建立したものである。
警察犬慰霊碑というのもあります。
動物関係が続くのは、以前は動物園があったからなのでしょうか。
●警察犬慰霊碑
この碑は福島県民の治安維持と県警察本部の捜査に協力した警察犬の霊を弔うために建立したものです
こちらが兎の記念碑に名前のあった1960年代の福島県知事、佐藤善一郎の胸像。知事になる前は衆議院議員も務めた人物です。
佐藤の急死を受け、跡を継いで知事となった木村守江の名で建てられています。
●佐藤善一郎銅像
故福島県知事佐藤善一郎翁は、昭和三十二年就任以来、県土の開発、県民の暮らしの向上、県民文化の発展を念願し、不屈の信念を持ってその達成に精進された。
これらの施策は着々と実り、翁の非凡の政治手腕は県民がひとしく賛仰するところであった。
昭和三十九年三月、志半ばにして他界されたことは惜しみてもなおあまりあることである。ここに生前の偉業をたたえ、遺徳をしのび、これをしるす。
しかし佐藤県知事よりも格段に立派なのは、大島要三の立像。やはり戦前の銅像は大きいです。
大島は鉄道工事で財をなし、福島では東北本線の工事で顔を売って電力会社など県内多数の企業の社長となり、さらには福島市議や衆議院議員にもなった人物です。
福島ゆかりの人物の句碑、歌碑は、あちこちに置かれています。地元ライオンズクラブの事業のようです。
少し山を下ったところには「鍼按灸術中興之祖 前総検校杉山和一先生之碑」があります。
杉山和一は、江戸時代前期の鍼医。伊勢に生まれて江戸で活躍した人物だということです。
「前」総検校と書かれているので、亡くなってしばらくのうちに建てられたものという可能性がありますが、300年も経っているようには見えないので再建されたものかも知れません。
極端に大きいのが「油井喜作君頌徳之碑」
台座だけで隣の軽自動車よりも大きいくらいですし、車の左が上の杉山和一の碑なので、巨大さがわかるかと思います。
さて、福島地方検察庁や職安がある山裾の一角から少し歩くと、いつの間にか信夫山公園に入っています。じつはこのあたりは、現在の信夫山公園が形づくられるよりも以前、1874年(明治7年)にはじめて公園が開かれた場所にあたるということで、いわば信夫山公園発祥の地と言える一角のようです。
日本の都市公園制度は明治6年太政官布達に始まるとされますが、その直後の5年間ほどは、全国のおもに県庁所在地で城跡や名勝地が公園に転換された時期にあたります。明治の新しいまちづくりを進めるためには「公園が不可欠だ」という思想が一気に広まったとも、一種のブームだったとも言えます。
公園の入口近くに「黒沼跡」という碑の建つ噴水池があります。この写真では動いていませんが、なにしろ噴水池なので、碑に書かれた「片目の鮒がすんでいた」ような雰囲気は皆無です。
少し坂道を登っていくと、いくつかの広場があります。訪れたのは初冬でしたが、まだ紅葉がきれいでした。
このあたりには、以前は動物園があったということです。
仕事の合間にふらりと歩いていけるのは、護国神社のあたりまでです。ここから先、もっと山奥に行くと、湯殿神社、羽黒神社、月山神社があり、その周りも信夫山公園の区域になっているはずです。
明治中頃に護国神社(戦前は招魂社)が整備された影響か、周辺はなにかとメモリアル的な役割を果たす場所になったおり、多くの記念碑や顕彰碑、歌碑、句碑等々が建てられています。
例えばこちらは吾妻山殉難記念碑。
1893年(明治26年)に福島・山形県境付近にある吾妻山が噴火した際に、観測調査にあたっていた農水省の三浦技師、西山技手が噴火に巻き込まれて亡くなったことの記念碑です。この事故は、日本火山観測史上初の殉死だということです。
●紹介記事
こちらは養兎記念碑。
50年ほど前に福島県の養兎産業がどのような状況にあったのかはよく分かりませんが、「養兎発祥○周年」といった理由ではなく「うさぎ年だから」記念碑を建てたというのが豪気です。
●養兎記念碑
本県の養兎は大正の始め愛玩用を兼ねて飼育されて、その後副業として普及しはじめた。県も大正十四年に種兎七十番を県内十の養兎組合に貸付け、特に昭和初期には農村経済更正事業の一環として全県下に普及を図り、不況打開に大きく貢献した。
他方、昭和八年に養兎組合連合会が結成され種兎の組織的改良生産、初の共同出荷など一連の事業を始め、昭和十四年には毛皮用成兎の飼育は四十八万頭をこえ年間百万枚の毛皮出荷を記録し、また昭和十七年頃からアンゴラ兎の飼育も普及し年間一万ポンドの兎毛を生産して全国的に優位を占めるに至った。
戦後の養兎事業は壊滅的打撃を受けたが、いち早く立ち直り、兎毛皮、兎毛及び種兎の輸移出がさかんとなり農家所得の向上と外貨の獲得に寄与した。
県養兎組合連合会も昭和二十八年に再発足し、更に県種兎登録協会の創立をみて本県の兎改良は更に進み福島の兎として再び全国にその名をうたわれるに至った。
また昭和三十七年に県は集落養兎事業を通じて企業的養兎の育成に当り、養兎も農業構造改善の一翼を荷う事となった。
本年は卯年でもあり、ここに本県養兎発展の経過を誌し養兎振興に尽くされた人々の功績を永く記念する為この碑を建立したものである。
昭和三十八年四月 福島県知事 佐藤善一郎 撰
警察犬慰霊碑というのもあります。
動物関係が続くのは、以前は動物園があったからなのでしょうか。
●警察犬慰霊碑
この碑は福島県民の治安維持と県警察本部の捜査に協力した警察犬の霊を弔うために建立したものです
日本警察犬協会 福島県支部
こちらが兎の記念碑に名前のあった1960年代の福島県知事、佐藤善一郎の胸像。知事になる前は衆議院議員も務めた人物です。
佐藤の急死を受け、跡を継いで知事となった木村守江の名で建てられています。
●佐藤善一郎銅像
故福島県知事佐藤善一郎翁は、昭和三十二年就任以来、県土の開発、県民の暮らしの向上、県民文化の発展を念願し、不屈の信念を持ってその達成に精進された。
これらの施策は着々と実り、翁の非凡の政治手腕は県民がひとしく賛仰するところであった。
昭和三十九年三月、志半ばにして他界されたことは惜しみてもなおあまりあることである。ここに生前の偉業をたたえ、遺徳をしのび、これをしるす。
昭和四十年十月 福島県知事 木村守江 撰
しかし佐藤県知事よりも格段に立派なのは、大島要三の立像。やはり戦前の銅像は大きいです。
大島は鉄道工事で財をなし、福島では東北本線の工事で顔を売って電力会社など県内多数の企業の社長となり、さらには福島市議や衆議院議員にもなった人物です。
福島ゆかりの人物の句碑、歌碑は、あちこちに置かれています。地元ライオンズクラブの事業のようです。
少し山を下ったところには「鍼按灸術中興之祖 前総検校杉山和一先生之碑」があります。
杉山和一は、江戸時代前期の鍼医。伊勢に生まれて江戸で活躍した人物だということです。
「前」総検校と書かれているので、亡くなってしばらくのうちに建てられたものという可能性がありますが、300年も経っているようには見えないので再建されたものかも知れません。
極端に大きいのが「油井喜作君頌徳之碑」
台座だけで隣の軽自動車よりも大きいくらいですし、車の左が上の杉山和一の碑なので、巨大さがわかるかと思います。
が、ネットで調べた範囲では、この油井喜作がどのような人物なのかはわかりませんでした。
信夫山森林愛護記念碑のまわりには、経塚のようなもの、寺の山号かなにか、まったく何かわからないものなど、大小の石碑が集まっています。
その他、大小多くの石碑があり、なかには近づけなくて何を書いてあるのかまったく読めないものもありました。
高松市の中央公園でも触れましたが、このように都市の中心的な公園にはその時々の市民の色々な思いで記念碑の類が置かれます。年月が経つと、次第に置かれた背景がわからなくなってくるので、なんらかの方法で資料や情報を集めて整理しておく方が良いと思います。
公民館や博物館の生涯学習講座などにちょうど良い題材なので、そうした方々と公園管理者が一緒に取り組むと面白いのですが。
(2012年12月訪問)
【2021年1月追記】
この記事を書いてから約8年。なんと、顕彰されている油井喜作さんのお孫さんからコメントをいただきました。
「山繭からふし絹を作り福島市に貢献し碑が立ったと聞いています」とのことですので、養蚕・製糸の分野で、地域産業に革新をもたらすなどの大きな功績があった人物だということがわかりました。
こういうコメントをいただけるのは、ほんとうにありがたいことです。
信夫山森林愛護記念碑のまわりには、経塚のようなもの、寺の山号かなにか、まったく何かわからないものなど、大小の石碑が集まっています。
その他、大小多くの石碑があり、なかには近づけなくて何を書いてあるのかまったく読めないものもありました。
高松市の中央公園でも触れましたが、このように都市の中心的な公園にはその時々の市民の色々な思いで記念碑の類が置かれます。年月が経つと、次第に置かれた背景がわからなくなってくるので、なんらかの方法で資料や情報を集めて整理しておく方が良いと思います。
公民館や博物館の生涯学習講座などにちょうど良い題材なので、そうした方々と公園管理者が一緒に取り組むと面白いのですが。
(2012年12月訪問)
油井喜作は私の祖父です、山繭からふし絹を作り福島市に貢献し碑が立ったと聞いています。
返信削除匿名様
削除こんにちは、ブログ作者です。コメントありがとうございます。
長年の不思議だった事柄について、思いがけず肉親の方からお教えいただき、とても驚きつつ感謝しております。
私は趣味で公園にある記念碑のことなどを記録に残しているのですが、とくに記念碑についてはインターネット情報だけではわからないことも多いものです。碑文をしっかり読めば調べられることも増えるのですが、油井喜作さんの顕彰碑については一般の住宅の横手に建っているために、裏側に回って碑文を探ることもではばかられて、あきらめたことをよく覚えています。
考えますに、福島(信達地方)は江戸時代からの国内有数の養蚕地帯ですので、そんな地域の主力産業において、山繭を使っての大きな技術革新を成し遂げられたということなのでしょうか。石碑の立派さからも、お祖父様の地域への貢献がうかがい知れるところです。
教えていただいたことを参考にして、また次に福島に行く時には図書館なども訪ねて資料をあたってみて、ブログ内容を充実させたいと考えています。
重ねてありがとうございました。今後とも拙ブログをよろしくお願いいたします。