126/1000 佐久間公園(東京都千代田区)

2012/09/07

身近な公園 千代田区 東京都 発祥の地

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No.125の和泉公園の隣にある和泉小学校は、1993年(平成5年)に統廃合で名称変更するまでは佐久間小学校という名前でした。所在地が神田和泉町なのに学校名は隣町の佐久間町がついていた理由は、明治以来佐久間町にあったものが1931年(昭和6年)に国鉄高架線工事で敷地を取られて移転したためです。

そして残った跡地が、いまの佐久間公園になりました。なので公園の入口には、「佐久間小学校跡地」の碑があります。
佐久間公園(東京都千代田区)
佐久間小学校跡地の碑

しかし、この公園が有名なのは「ラジオ体操会 発祥の地」として(と言っても、行ってみるまで知りませんでしたが)。
公園内の石碑には、1928年(昭和3年)、近くの万世橋警察署に勤めていた面高巡査が町内会の人たちと共に全国に先がけてラジオ体操会を始めた地であると記されています。先ほど述べた時系列で言うと、まだ佐久間小学校だった頃の話になります。
佐久間公園(東京都千代田区)
ラジオ体操会 発祥の地の碑

公園内は、ごく最近リニューアルされた模様で、バリアフリー型の施設はどれもピカピカです。トイレや喫煙スペースもあって、見ているとひっきりなしに人が出入りしていました。

公園の中心部はダスト舗装の広場が占める形になっており、西側にある遊具広場は草貼りで、複合遊具、揺れる動物、砂場があります。
佐久間公園(東京都千代田区)
遊具広場

遊具広場の反対側の東北隅には草分稲荷社。江戸時代にこの地にあった板倉主計頭の屋敷に奉られていたものだそうです。
佐久間公園(東京都千代田区)
草分稲荷社
 (2012年7月訪問)

【2017年7月追記】
先日、暇な時にプラプラ歩いていて佐久間公園を通りがかったので、記事を書いた時には記録し損ねていた「佐久間小学校跡地の碑」の裏面の碑文を写し取ってきました。
非常に小さな字で、また植え込みの中に建てられているので読みづらいのですが、小学校と公園のたどってきた経過が詳しく記されています。

●現地の記念碑より「佐久間小学校ここに開く」
千代田区立佐久間小学校の歴史は遠く明治33年(西暦1900年)に遡る。この年、東京市神田区議会は佐久間町3丁目21番第1号の当地に「佐久間小学校」の建設を決定。同35年5月に着工して10月30日、木造2階建て457坪5勺の校舎が完成し11月9日開校した。
昭和6年4月、両国~御茶水間の国鉄高架線工事により敷地の一部が用地に収容されたため、同8年、現在の和泉町に移転、跡地が当公園に転用された。
大正12年の関東大震災に際して小学校は住民の必死の防火作業により罹災を免れ、避難救済所が設置されて救援活動の中心となった。このとき防災活動に結集された地域住民の連帯と協力が広く伝えられ、のちに東京市史跡に指定された。
さらに移転後の佐久間小学校は第二次大戦で戦火にあい昭和20年3月焼失。
このため閉校となり住宅に、また講堂は工場に転用されたが、戦後復興の槌音とともに住民の努力により同24年授業を再開、以後、盛運に恵まれた。
この間、佐久間小学校は「神田っ子」に象徴される良き伝統に支えられて幾多の風雪に堪え、ことし創立73年を迎えた。当校が送り出した卒業生は6800余名、みな良く地域の発展につくし、あるいは社会に名を成し、佐久間教育の成果を各界に生かしつつある。
佐久間に学んだ校友諸兄姉の思い出を留めるとともに、古きをたずね新しきを知る因とするため、いま遠のきつつある明治、大正、昭和の歴史をここに記す。
明治35年11月9日:東京市立佐久間尋常小学校が開校。児童数1年生18名、2年生3名。初代校長堀江嘉吉。建設費41,860円(うち校舎建築費16,216円)
明治37年3月:高等科が置かれ佐久間尋常高等小学校となる。
明治43年:学級数16、児童数847名、教員数19名、二部授業を行なう
大正12年9月1日:大地震発生。2日より休校、15日授業再開
昭和6年4月1日:移転のため取り壊す。児童は橋本、和泉、千桜の各小学校へ分散
昭和7年8月6日:和泉町の現在地で地鎮祭、翌8年10月16日落成式、旧校歌、校旗(転記注釈:文字が汚れて読み取れず)を制定。今日に至る。
この思い出を捨て難く校友諸氏の初願により、この碑を立つ。
昭和50年6月 東京都千代田区教育委員会

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