沖縄の歴史では、1429年に尚巴志によって本島全体が統一される前の、南・中・北の3地域それぞれを束ねる勢力が並立していた14世紀初頭~15世紀初頭を、三山(さんざん)時代と呼びます。
その頃の南山勢力が拠点としていたグスク跡が、糸満市立高嶺小学校の敷地に当たるとして、市の史跡に指定されています。
この南山の最後の王が他魯毎(たるみー,たるもい:在位1415~1429年)で、No.2400 山巓毛公園で名前だけが登場しました。
なにぶん滅ぼされた側の最後の王なので、バカ殿様的エピソードが残されており、中山王が持っていた金屏風が欲しくて大事な井泉と交換してしまい、人民の信頼を失って滅んだというのです。
糸満市教育委員会発行『沖縄・糸満市の昔話』(1996)には次のように書かれています。「領地を残したまま井泉だけを譲り渡す」という話の構造がなかなか理解し難いのですが、それはさておき。
『おもろさうし』に「大さとは さとからる、かでしかわ みづからる」と歌われ、南山城の東にある水量豊かなカディシガー(嘉手志川)から湧き出る水が城下の田畑を潤し、南山繁栄の基盤をなしていました。
しかし、南山王他魯毎は、この川と佐敷の小按司(尚巴志)の持つ金屏風とを交換したことで、臣下の信望を失い、ついには巴志によって滅ぼされてしまったと言います。
さて、他魯毎が手放してしまった嘉手志川ですが、いまは集落の水場としてきれいに保たれ、誰もが入れる公園的な空間になっています。
この覆屋の中に湧水の本体があり、湧き出た水が池を潤し、下流へと流れて農地を潤しているのだと思いますが、訪ねた時は小学生たちが水遊びの真っ最中だったので、近くから覆屋内を覗き込むことはできませんでした。
覆屋の裏側には「恵泉の龍」と書かれています。
池全体が「恵泉」であり、覆屋の上に載っかっている像が「恵泉の龍」であるかと思います。
池の出口も、滔々と流れていきます。現代の用水路よりも水深が浅く、水が勢いよく流れているのがよく見えるので、なんだか楽しい気分になります。
泉の畔には、沖縄戦の弾痕も残る「灌漑設備記念碑」が建てられています。
この碑そのものは1930年(昭和5年)からの整備を記念して建てられたものでそうですが、さきほどの覆屋などはもっと新しいものに見えるので、池部分の整備がこの時だったのでしょうか。
■現地の解説板より「灌漑整備記念の碑」
嘉手志川は、『琉球国由来記』(1713年成立)にも記述がある由緒ある泉で、大里ではウフガーと呼ばれ、ンブガー(産井泉)として大切にされてきました。豊富な水量を誇り、古くから周辺地域に豊かな恵みをもたらしてきました。
この石碑は、1930(昭和5)年から翌年にかけて行われた灌溉整備事業を記念して建てられたもので、「灌漑整備記念」と刻まれています。
東に面する碑の正面には、沖縄戦による弾痕がいくつもあり、与座岳をめぐる激戦の様子が偲ばれます。(糸満市 平成30年2月)
沖縄では井泉は神聖な場所なので、大きなガジュマルなども残されています。
こちらの樹の根本と一体化した拝所もかなり気になりますが、あくまで皆様の信仰の場所なので、覗き込むようなことは避けましょう。
夏の暑さを忘れさせてくれる嘉手志川でした。
(2025年6月訪問)









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