うるま市石川、以前の石川市の中心街にある世栄津の森(ゆえつのもり)公園は、銀座通りと呼ばれる目抜き通りを挟んで2つに分かれる小公園です。
正確に言えば、制度上は2つは別々の公園緑地であり、西南側(写真右)は街区公園「世栄津の森公園」、東北側(写真左)は都市緑地「世栄津の森」が正式名称なのですが、ここでは南側、北側と呼ぶことにします。
ここは丘の真ん中を切り開いて道路を通したわけではなく、古い時代から2つの小丘の鞍部を道が通っており、そこが広場になって色々な用途に使われていたようで、これの呼び名がクランタナカ。
...といったことが、解説板に書かれていました。
■世栄津森(ゆえつむい)とくらんたなか
下の広場をはさんで北と南に小高く盛り上がったこのあたりを世栄津森と呼んでいます。南側を前の世栄津(メーヌユエツ)、北側を後の世栄津(クシヌユエツ)といって、昔は松の大木がうっそうと繁り、その様子は神々しいばかりでした。
「くらんたなか」とはこの両方の森にはさまれた広場で、昔はそこに首里の王様に納める穀物を入れる倉が建っていました。それで「くら=倉」「たなか=間・中間」という意味から「くらんたなか」と呼ばれるようになったということです。また、この両方の森が馬の背中に乗せる鞍の前と後の部分で真中の広場が人がまたがる部分に似ているところから、鞍の真中「くらんたなか」と呼ばれるのだという話もあります。遠くからだとそのように見えるかも知れませんね。(平成5年3月31日 石川市教育委員会)
広場時代は、こんな感じでウスデークの踊りが奉納されていたようです。
でも穀物倉が建っていたら踊るのには邪魔ですから、ブログ作者としては鞍の真中説を推したいように思います。
まずは南側、街区公園の前之世栄津(メーヌユエツ)に入ります。
道路からは2.5メートルほど高くなった場所を平坦にして、でも2ヵ所の出入口をスロープにしてバリアフリーで中を通り抜けられるようにする、という、けっこう難しい処理をしています。
園内は、ほぼ広場。その縁に沿うように緩い起伏を持った園路を通し、遊具はブランコだけを置いていました。
園路沿いには小さなスタンド席のようなものも設けられています。
いまの道路では、伝統のウスデークを踊ることはできませんので、こちらの公園内の広場を使っているのかも知れません。
唯一の遊具が2連ブランコ。わりと最近に取り替えられたらしく、まだ新しいものが置かれていました。
見晴らしの良い場所で、思う存分に揺れることができます。
丘上から下りてところにも小園地があるので、ここも公園区域なのだろうと思います。
あらためて、道路越しに北側、都市緑地の後之世栄津(クシヌユエツ)を眺めます。緑地というだけあって、高木植栽はこちらの方がかなり豊富で、こんもりとした丘のイメージを保っています。
交差点に面した出入口には、まず四阿。北側も南側も丘上が中心地で、道路からは見ることができないので、こうした見える位置に休憩場所があることは、利用面でもご近所の交流のためにも、良い配置だと思います。
その真中を水路が貫いているのも、面白い構造です。
丘上に進んでみると、そこに水路の源がありました。とは言え、地形的にこの位置に水が湧くとは考えにくいので、ポンプアップしているのだろうと思います。
傍らの手水鉢のようなものには、沖縄では珍しく仏様が彫られています。
とくにいわれが有るのか無いのかもわかりませんが、小さな森の中の雰囲気にはよく似合っています。
この水源も含めて、丘上の半分くらいは拝所の空間。
残りのもう半分には、1957年(昭和32年)に建てられた戦没者慰霊碑・聖魂之塔や、令和に入ってから新たに加わった石川戦没者刻銘板などが建てられており、地域の戦没者の皆さんを悼む空間となっています。
時代は移ろいますが、地域の皆さんにとって大切な歴史を未来へと語り継ぐ役割を果たしている世栄津の森公園でした。
(2024年3月訪問)
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