伊万里市の中心部に向かっている途中の交差点で停まったら、その角に公園がありました。
そこで立ち寄ってみたら、ここが伊万里市の近代に足跡を残した人物を記念する森永公園でした。
エントランスの時計台に、もうヒントが隠されています。
金のエンゼルと言えば、そう、乳製品やお菓子のメーカー・森永です。
詳しいことは園内の解説板に書かれていますが、伊万里出身の森永太一郎さんは、サンフランシスコで製菓を学び、東京で後に森永製菓となる会社を起こし、後に森永乳業となる畜産部門も取り入れて事業を成功させた後に、故郷に近代的な酪農を普及させたいと考えて資金を寄付し、この地に工場を建てたりしたわけです。
この工場が約70年後の平成年代に閉鎖されて、跡地を使ってこの公園ができたということです。
■現地の解説板より「伊万里市立”森永公園”の由来」
この公園は平成12年3月、森永の伊万里乳製品工場敷地跡に造られました。
その工場は大正11年(1922年)に新設され、当時の伊万里町大坪、牧島、大川内、二里などの酪農家から一日15石(約3トン)を集乳し、製菓原料用の練乳を製造しました。その3年前から始まった伊万里の酪農は、この工場設立を機に隆盛し、たちまち日産24石(約5トン)の牛乳を産出するようになり、陶器と農産物の集散以外になかったこの町に乳製品産業を加えて伊万里の発展に大いに貢献しました。
この地区の酪農は、伊万里出身の「西洋菓子の父」森永太一郎氏が郷土振興のため大正8年(1919年)に当時としては大金の私財1万円を酪農資金として、西松浦郡に寄付したことに始まります。この資金で房州(千葉県)から導入された乳牛約50頭が抽選で希望者に配分されたので、大いに酪農熱が湧き上がって西松浦郡酪農組合が設立され軌道に乗りました。
森永の伊万里乳製品工場は時代の変遷にともなってその役割を果たし、昭和33年からは伊万里地方酪農業協同組合の手で運営されてきましたが、伊万里市の市街地の発展拡大によって、工場後背地域の環境が変化し、酪農適地が急減したので、遂に煙突から煙が消え工場は閉鎖されました。
大正11年から平成6年までの長い間、国民大衆に栄養を供給し続けてきたこの工場の敷地は、伊万里市民の憩いの場に提供されることになりましたが、森永事業の創始者である森永太一郎氏の郷土伊万里に対する熱い心は、いつまでもこの地に留まり続けることでしょう。
こちらが園内に飾られている森永太一郎さんの銅像。
立派な髭を貯えて、ダブルのスーツに身を包んだ姿は、かなり晩年のものと思われます。
■現地の解説板より「伊万里の偉人 森永太一郎」
1865年(慶応元年)~1937年(昭和12年)
森永製菓と森永乳業の創業者。伊万里市出身。生家は松島町で陶器と魚の問屋を営んでいたが、父親の死後、家産を失い、幼い太一郎は母親の実家で苦労して育った。後に、叔父の山崎文左衛門から商売の基礎を学び、コンニャクなどの行商を始め、その才能を伸ばした太一郎は、成人後渡米し、幾多の困難を乗り越え、西洋菓子の製法を習得した。
帰国後、東京で森永西洋菓子製造所を開設し、日本人になじみがなかったキャラメルやチョコレートなど西洋菓子の製造・普及に努め、後に製菓王と呼ばれるほど日本の菓子づくりに貢献した。また、郷土の畜産振興を願い私財を寄付するとともに、大坪町に森永製菓第八工場(後の森永乳業伊萬里工場)を建てるなど、伊万里の発展に寄与した。
ちなみにこちらは、伊万里駅前にある太一郎さんの銅像。エプロンを着て森永ミルクキャラメルの箱を握りしめ、スッと前を見つめているのは、これから新事業を起こしていこうとする若き日の姿です。
そしてこの頃から、髭や髪型にはこだわりがありそうです。
さて、公園に戻ってほぼ全景。無くなった工場の一部が公園化されたものと思われ、道路に沿って長方形に近い、細長い敷地となっています。
公園全体の主旨としては森永太一郎さんの顕彰だと思うのですが、伊万里市街地への導入部にもあたるため、伊万里焼をデザインしたウェルカムタワーのような看板も建てられています。
利用者のための施設としては、草芝敷きの広場、休憩所、トイレ、遊具などがありますが、訪ねた時は、ちょうど遊具の更新作業中。
遊具設置場所のサイズからして、きっと今頃は真新しい複合遊具が置かれていることでしょう。
でも森永さんか伊万里焼か、どちらかに絞るほうが良かったと思う森永公園でした。
(2024年2月訪問)
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