3688/1000 辰巳(和楽)公園(京都市上京区)

2024/07/18

京都市上京区 京都府 山遊具 身近な公園

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辰巳(和楽)公園は、東西の下長者町通と南北の智恵光院通とが交差する角にある小公園です。
この付近では、戦時中の建物疎開と空襲とで街なみが大きく変化しており、この公園も建物疎開跡地を使って作られたようです。

以前は「米軍は京都の文化財を守るために空襲することを避けた」といった説がありましたが、近年の研究の進展で、これには否定的な見解が強くなっています。
ただ、京都市内で空襲被害を受けた地区が限られているのは事実であり、その一つが、この公園の周辺だということで、通りからよく見えるところに石碑が建てられています。

■空爆被災を記録する碑

昭和20年(1945年)6月26日昼前、低い雲の上空に敵機B29の爆音が近づき、突然に轟然たる爆発音とともにすさまじい土煙が上がった。この時の被爆は上長者町通より南は下立売通、東は大宮通、西は浄福寺通に至る方400メートルの地域で、当時の報告には50キロ爆弾7発とも5発とも言われた。報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならなかったが、西陣警察署の記録によると
 一、死傷者・即死43人、重傷13人、軽傷53人、計109人。
 二、被害家屋・全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸、計292戸。
 三、罹災者・850人。
であった。ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。
第二次大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われてきたが、東山区馬町と太秦の三菱工場および当地域が爆撃をうけたものであり、当地域が最も大きな犠牲者を出したのである。ここに戦後60年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるため、この碑を建立して後世への記録と留める。(平成17年8月 空爆被災を記録する碑の建立委員会)

1945年(昭和20年)に、当時の第一復員省によって作成された『全国主要都市戦災概況図』にも、空襲の被害範囲が記されています。現在の公園は、被害範囲の北端、警察署のマークの南側にあたります。

地図上で目印にした西陣警察署は、当時も「大きな建物が空襲の目印になる」という理由ですでに疎開していたそうですが、そこには今もなにやら官舎らしきが建っています。きっと警察関係の施設なのでしょう。

さて、現在の公園ですが、敷地中央に大きな石の山遊具を置き、その南側にブランコや砂場などの遊具を集め、北側は少しだけ広場空間を取っています。

メイン遊具と言える石の山遊具は、No.892 竹間公園と同系統の、大・小ふたつの丸い小山をくっつけた前円後円墳型で、斜面のどこらかでも登れるようにしたうえで、人研ぎ滑り台を取り付けたものです。

ただし滑り部の数や周りの砂場の付け方などはNo.892のものとは異なっています。近年の安全基準への対応等はどちらも大差ないので、違いは新・旧によるものではなく、敷地全体のスペースの都合などではないかと考えてみます。

2連ブランコは、座板や鎖が京都市に多いタイプのものです。

そして北側の広場の方には、少しだけ健康器具が置かれています。

ご近所の方向けの小ぢんまりとした公園ですが、地域の歴史も伝える辰巳(和楽)公園でした。

(2024年1月訪問)

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