琵琶湖から京都市内に水を引き込み水力発電や舟運に活かそうとした琵琶湖疏水は、明治維新における事実上の遷都によって急激な人口減少に見舞われた京都を、近代都市として再生するための一大プロジェクトで、1885年に着工、1890年に完成したものです(第1疎水)。1912年には第2疎水も開通し、現在は上水道にも使われているほか、東山山麓を流れて数々の庭園にも引水され、京都の風景を形づくる上で重要な役割を果たしています。
以前に、琵琶湖側の取水口のそばにあるNo.728 仲よし児童遊園地を訪ねましたが、今回は京都側の出口にあたるインクライン周辺が公園として整備されているところを訪ねました。
都市計画上は京都市動物園や博物館がある岡崎公園の一部なのですが、敷地としては離れているし、公園としての質感もかなり異なるので、ブログ記事としては“蹴上インクライン”と呼んでおきます。
インクラインとは、水路内に高低差があって舟が行き来できない箇所に、人や荷物を積んだままの舟を載せて運べる台車を設置することで坂道を上下移動させるという一種のケーブルカーで、ここでは江戸時代からの舟運の主力サイズであった三十石舟(長さ約15m)までを運ぶことができました。
坂の上が蹴上船溜、坂下が南禅寺船溜で、現地の解説板によれば距離は582m、高低差は36mあるそうです。
いま見ているのが蹴上船溜で、現在もツアーに申し込めば大津からここまで舟に乗ってくることができます。
そして、インクライン全体が公園のような見学施設になっているので、この蹴上船溜の周りが、その最上部の園地ということになります。
10年くらい前に来た時はもう少しゴチャっとして、この石碑の正面は滑り台やブランコがある遊び場になっていたはずですが、いまは改修されて近代化遺産の見学に相応しい落ち着いた雰囲気に変わっています。
石碑は「琵琶湖疏水工事殉難者碑」で、工事中に亡くなった17名の方の慰霊のため、工事担当者として事業をリードした田辺朔郎が建てたものだそうです。
奥のお堂に安置されているのが義経大日如来と言われる石仏で、若き日の源義経が斬り殺した平家の郎党を弔うために建立したと伝わるものです。
そのすぐ横には、フェンスに囲まれた四角い池があります。
琵琶湖疏水の開通は防災面でも革命的で、蹴上から分水して東本願寺、京都御所へそれぞれ防火目的の専用水道が引かれました。そのうちの本願寺水道の水源池にあたります。
解説板にあるように、東本願寺までの48mの高低差を利用して自然の力で水を噴き上げることができるように設計されているそうです。資料によれば東本願寺の御影堂の高さが38mですので、その屋根までは届くということでしょうか。
東本願寺は幕末の禁門の変(1864年)でも全焼しているので、防火用水の確保が切望されたことがうかがえます。現地の解説ではよくわかりませんが、東本願寺がそれなりの費用を負担して作ったものなのだろうと思います。
■現地の解説板より「ここは本願寺水道の水源地です」「本願寺水道」とは明治時代に施設された東本願寺独自の防災用水道です。琵琶湖疏水の水を、埋設された約4.6kmのベルギー製の鋳鉄管を通して、東本願寺まで運んでいます。水源地と東本願寺の高低差は約48mあり、防火に必要な自然水圧で水を噴き上げるというものです。これは江戸時代に4度の焼失の歴史が契機になったものであり、現代の社会事情では到底なし得ない斬新で大がかりな近代の防災文化遺産です。【本願寺水道 再生への願い】1897(明治30年)に完成してから100年以上経過した現在、老朽化が進んだ「本願寺水道」は2008(平成20年)に停水しました。しかし近年、地域防災の観点から再び注目を集めています。「修復し京都のまちの地域防災や水環境の保全に役立たせてほしい」と復活を望む市民や、防災の近代史を物語るこの設備の歴史を学び、将来へ活かす事業へと結実させることが期待されています。(真宗大谷派東本願寺)
そこから疎水に沿って下っていくと、同じく高低差を利用した水力発電所の取水口に向かいます。
取水口の建屋の横にはダムの余水吐のような施設があって、発電所行きと水が分かれています。分かれた水もどこかしらの水路を通ってインクライン下部の南禅寺船溜まり付近に流れ出ている思うのですが、現地ではそのルートはよくわかりませんでした。
これが発電所へと水を送る送水管。資料によれば、専門的には水圧鉄管というそうで、三条通を挟んで約200m先、高低差約40メートルの発電所まで続いています。
つまり発電目的のためにはこの高低差が必須なんだけれど、それでは舟が通れないので、じゃぁ発電した電気で動くインクラインを作ろうという発想の流れがあるわけです。
この取水口や余水吐の周りがまた小園地になっており、銅像や記念碑などがあって、史跡見学や散策の拠点になっています。
銅像と記念碑は、先にも登場した田辺朔郎を称えるもので、田辺の還暦を記念して建てられた碑と、後に建てられた銅像が並んでいます。
田辺は20代のうちに京都府に招かれて琵琶湖疏水の設計・工事の大任を勤め上げ、その後は東京帝大、京都帝大の教授を歴任しつつ、各地の鉄道やトンネル等の計画に携わったという人物です。
なので銅像が若い。
銅像のタイトルは「田辺朔郎博士像」となっていますが、右手に図面を握りしめているところを見ると、工学博士になる前、京都でバリバリと疎水工事を指揮していた20代のころの姿なのだろうと思います。
こちらは「殉職者之碑」。京都市電気局と刻まれていますが、これは1941年(昭和16年)の建立当時に疎水事業を所管していた組織だそうです。
明治末から戦中ごろまでは、京都・大阪・神戸などの大都市には電気供給と路面電車事業などを扱う市組織がありましたが、やがて電気部門は電力会社に引き渡され、市営電気事業は姿を消します。蹴上発電所の場合、1942年(昭和17年)に京都市から関西電力の前身会社へと引き継がれていますので、その前年の石碑建立は、市営組織として先人たちを慰霊する最後のチャンスだったのかも知れません。
この慰霊碑の近くには、噴水があります。おそらく、さっきの余水吐から流れ出た水が自然の力で吹き出るようになっているのだと思います。
付近には疎水が滔々と流れているのですが、現役の産業施設だということもあって直接に水に触れられる場所はなく、唯一ここだけがそうなっています。
ここからは、500メートル以上にわたって4本(2組)のレールが真っ直ぐ伸びるインクライン。じつは終戦後に舟の輸送が完全になくなった後にレールは撤去されたのですが、市の史跡指定にあわせて復元的に再整備されたものです。
その時に両側のサクラ並木なども形作られ、季節になれば大勢の観光客が訪れる遊歩道になっています。
枕木や敷石があって歩きやすい道ではないのですが、片側に踏み石があって、ここだけが歩きやすくなっています。本当はここに台車を上下させるケーブルが通っていたわけですが、そこまでは復元されていません。
そうして一番下まで下りていくと南禅寺船溜り。ここから先は岡崎公園のメインエリアになるので、また別の機会に。
(2022年6月訪問)
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