公園名としての正式な読み方は知らないのですが、上ヌ毛は沖縄方言で「ウィーヌモー」と読み、「(丘の)上の方にある原っぱ」くらいの意味です。
当時22歳で隊長を務めていた豊廣稔さんは、後年には戦史の語り継ぎにも協力的だったようで、2009年(平成21年)のインタビューがNHKのアーカイブスに収録されています。
資料によれば、ここは14〜15世紀頃に金武グスクだった場所だということですが、今は広々と整備されていて、あまりグスクっぽさはありません。
それを補うかのように、砦の見張り台のような展望塔が作られています。
広場の周りに、大城孝蔵の銅像、トイレ、砂場が見えています。
上写真左手に見えているのが、金武町出身の大城孝蔵(おおしろ・こうぞう;1881~1935)の銅像。大城は、No.2732 で登場した當山久蔵に勧められて移民監督としてフィリピンに渡り、現地では主導的立場で活躍した人物です。
碑文がすごく詳しいので、読めばだいたいわかります。
■碑文より「フィリピン移民の父 大城孝藏之像」
沖縄のフィリピン移民は、1904(明治37)年首都マニラと避暑地バギオを結ぶベンゲット道路の過酷な工事についたのが始まりとされている。
翌年、同工事を終えた沖縄移民たちは、大城考藏に引率されミンダナオ島ダバオに転航し、マニラ麻の栽培に従事する。
このダバオでのマニラ麻栽培がフィリピン移民発展の契機となり、フィリピンはハワイに次ぐ第二の移民地となった。
1938(昭和13)年4月、ダバオ沖縄県人会ではダバオ開拓の大恩人で在留同胞の先覚者たる故大城孝藏の功績を永遠に讃える為、当時、海外移民事業の拠点であった那覇市若狭の開洋会館前庭に大城孝藏の胸像を建立した。
一方、郷里の金武村では、ダバオ在日本人移民からの寄付金と村内外からの浄財をもとに大城孝藏の銅像制作がすすめられ、1938(昭和13)年8月、石膏像による原型が完成し、金武区のウィーヌモーで除幕式を挙行している。しかしながらこの二つの像は大戦の渦中で姿を消してしまう。
2003(平成15)年4月17日、大城考藏の像再建という関係者の熱い思いを受けて、フィリピン移民関係者及び町内の関係機関によって、大城孝藏銅像建立期成会が発足し銅像建立の準備がすすめられる。
2004(平成16年)4月10日、沖縄移民がベンゲット道路建設に出発して100年、本期成会は、大城考藏の偉業を顕彰し、かつて我々の同胞がフィリピンで生きた証として、過去に除幕式が行われたこの地に大城孝藏之銅像を建立する。
フィリピンで活躍する姿なのでしょう、半ズボン姿でステッキを持った銅像です。
■碑文より「金武節」
くばは金武で取り 竹は安富祖で取り 瀬良垣では竹を細く削り 恩納でくば笠を仕上げた
読人しらずの金武節は、琉球に関する古い文献から推察すると、18世紀後半より古い時代に生まれたと考えられています。
歌の内容はくば笠を作る人達が金武を出発し安富祖、瀬良垣、恩納までの道程をくば笠作りになぞらえて歌ったものである。2000年建立
さらに敷地の東端には、戦時中の特攻兵器・震洋を扱った部隊の慰霊碑が建てられていました。「震洋」とカッコいい名前が付いていますが、実際はベニヤ板製のモーターボートの船首に250kgの爆薬を積み、闇に紛れて敵艦に体当たり攻撃をするというものです。
以前にNo.240 健康ふれあいランド公園を訪ねた時も震洋の秘匿基地があり、そこはそもそも米軍が来なかったので出撃することなく終戦を迎えたとのことでしたが、ここ金武の部隊は米軍の上陸部隊から激しい攻撃を受け、肝心の特攻もままならないまま160人(乗員50人、基地隊員110人)の半数近くが戦死して終戦を迎えたそうです。
■碑文より「金武鎮魂碑」
この鎮魂の碑は、金武に駐屯していた第22震洋特別攻撃隊 (豊廣部隊)の戦死者74人の御霊が祀られている。
昭和20年1月26日、同特攻隊は部隊本部を興亜会館(現・金武公会堂)に置き、金武の前の浜を前線への発進基地として、日々激しい攻撃訓練が展開された。
昭和20年3月末、米艦沖縄接近に伴い、同隊は幾度となく敵艦に攻撃を加え、多大な戦果を挙げた。米軍上陸後は陸上戦へ移行、北部山中に立てこもり、夜襲を敢行、しかし、戦うに武器なく、食もなく、次第に多くの戦友が尊い生命を絶っていった。
この碑は、隊長・豊廣稔外、生存戦友の尽力によって建立された。平成15年6月記 金武町遺族会
それを聞くと、これといった戦果もないままに爆撃で大半の船と多くの兵を失って北部に転進したということのようなのですが、それでも碑文に「多大な戦果を挙げた」と刻むのは、亡くなった方へのせめてものたむけなのでしょうか。
金武町の歴史に関わる色々な記念碑を見た上ヌ毛公園でした。
(2021年3月訪問)
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