沖縄県北部の町・金武町(きんちょう)に、1853年5月に沖縄を訪れたペリー艦隊から派遣された調査隊が野営をした場所だと伝えられている場所があります。当時、沖縄では西洋人を「ウランダー」と呼んでいたことから、その土地に付いた名前がオランダ森。今のオランダ森緑地公園です。
...といったことが金武町のホームページなどに書いてあるのですが、ペリーが帰国後に米政府に提出した公式報告書『ペリー提督日本遠征記』には、宿泊場所は金武番所(役所)だと書かれています。
そこで私はこの役人について村を通り過ぎ、一軒の公館に到着した。それは今まで見た公館のどれよりも大きくて立派なものであった。それは瀟洒たる私人の邸宅のようであって、四角に囲われた庭があり、刈り込まれたジャスミンの垣根があり、召使や従者達用の離れ家があった。庭には數行の菊(日本人が大いに尊んでいる花)と日本の桃の木があり、その他に、面白い形に刈り込まれた一本の太い椿があった。吾々は母屋の柔い畳の上に座ったが、親雲上とその従者は他の建物に入っていった。
手に入れることのできた唯一つの食料品というのは、生の鹽魚と甘藷と鹽漬にした野生洋葱の根若干だけだった。鶏も卵も見つけることができなかった。
土人達は村の名前を『チン』Chinと言っていた。これは支那語であって明らかに間違っているのであろうが、他に名前は判らなかった。
(岩波文庫『ペリー提督日本遠征記(2)』1948年版,土屋喬雄・玉城肇訳)
だいたい同じ部分の翻訳ですが、より古く翻訳されたものでも「番所に泊まっていたら近所の人が覗きに来た」といった内容になっています。
そこで私は彼の後について、村の中を通って番所に着いた。此家は今まで見たものよりも大きく、而も立派で何だか私宅らしくて、花園もあり、又四角に苅り込まれた素馨の垣で囲まれた小使用の家も、又別にあった。花園には、日本種の菊に似た菊や、二本の桃の樹等も植えられてあった。又風変のした、恰好の強そうな椿も生えて居た。
...琉球人は此村をチン(金武)と云うていた。吾々が到着すると共に室と室との間に立ててあった戸は取りはずされ、茶を持ってくるやら、莨を出すやら、土地の人々はたいへん世話しそうに吾々をもてなしてくれた。けれ共相変わらず石川に於けると同様に、探偵の目は吾々の周囲から離れなかった。
野営の燈はつけられたが、周囲には警護の番人が物々しく配置され、変な格好をした土人は後の叢や壁から覗いていたが、吾々を見て大変好奇心を満足させて居る様であった。
(国書刊行会『ペルリ提督琉球訪問記』神田精輝著訳,大正15年発行の復刻版)
派遣された調査隊は士官4人、水兵4人、中国人役夫4人の12名で構成されていたそうですが、士官の1人というのがスケッチが得意なヴィルヘルム・ハイネで、”琉球踏査隊の宿営地/Encampment of the exploring party in Lew Chew.”というタイトルで番所建物を描いています。
このハイネの回顧録もあって、これを編集した書物にも「1泊め(今の西原町に野営)を除いては宿に泊まった」と書かれています。
...この探索で、我々は最初の一夜を除いて、他の夜は現地の宿で過ごした。これらの宿の多くは景勝地にあって、風景・宿所共に素晴らしかった。以上を突き合わせると「この場所に金武番所があったのか?」と考えるのですが、地形を見るとハイネの絵と似ているような、似ていないような...
(三一書房『ペリーとともに-画家ハイネがみた幕末と日本人-』フレデリック・トラウトマン著,座本勝之訳)
石碑によれば、この場所は松岡の屋敷跡だそうですので、もしペリー艦隊が来た頃に金武番所だったとしたら、その後数十年のうちに松岡の手に渡って屋敷として使われたということになります。
そんなにずっと建物があって土地利用されていた場所を「森(ムイ)」と呼ぶものなのか?というのも疑問なのです。
ここがペリーの調査隊が宿泊した場所で、それは金武番所であり、野営地ではなかった、ということについて詳しく教えてくださる方を鋭意募集中です。
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