開園したのは昭和の終わり頃なのですが、当時は「住民主体のまちづくり提案から生まれた公園」として、色々な資料で紹介されていたことを覚えています。
さて、そんな経緯の末に生まれた北沢公園ですが、上述の「街づくり提案」自体が木造住宅が密集していた地区の今後のあり方を考えたものだったこともあり、災害時の一時避難場所として使える広場を大きくとった形になっています。
広場の西側は、大きめの流れが作られています。
■現地の解説板より「北沢公園ができるまで」北沢公園ができるきっかけは昭和57年10月に北沢地区まちづくり協議会から世田谷区長あてに提出された「北沢地区まちづくりについての提言」であった。北沢地区まちづくり協議会(第1次)は昭和55年北沢3・4丁目住民の有志によって結成され、まちづくりについて住民の立場から検討を重ねた。「提言」の中では、まちづくりの基本的考え方、道路・建築物・生活環境の整備、まちづくりの実現について協議会で話し合われたことがまとめられている。その中で、地区内の公園・広場について「比較的大規模な用地(東電テニスコート等)の取得につとめ、日常的には公園として、災害には一時避難場所として整備をはかる。」と提言されたことから、区の用地取得の交渉が始められた。北沢公園用地の旧所有者は東京電力であり、社員のための福利厚生施設・テニスコートとして長く利用していた。交渉には時間はかかったが「都市計画公園として整備するならば」という条件のもと協力的に進められ、昭和61年2月に世田谷区は用地を取得した。北沢公園2,170平米の整備計画作成は、北沢地区まちづくり協議会(第2次・59年7月結成)東ブロック会が中心となって進められ、話し合いには公園近隣住民、北沢小学校児童のお母さんたちも参加した。昭和61年7月には「北沢地区街づくり提案」として世田谷区長に提出され、提案内容は“子供の遊び場”として暫定開放中だった北沢公園に掲示され広く利用者に知らされた。その結果、さらに整備計画案は修正された。整備計画には地元住民ならではの内容が盛り込まれている。中央園路は、テニスコートになる前、原っぱだった頃に近所の人たちがつけた踏み分け道が再現されている。防災拠点として、また子供たちがのびのび遊べるように広場部分は大きくとられた。茶沢通り沿いは、車両交通量の多さから歩道が設置された。「街づくり提案」に基づく整備が世田谷区によっておこなわれ、昭和63年3月に北沢公園として開設された。同年4月には、北沢地区まちづくり協議会が中心となって開設まつりが盛大におこなわれ、約2,000人の地域住民が公園の完成を祝った。
この広場を囲むように園内を貫いている園路が、解説板にあった「原っぱだった頃に近所の人たちがつけた踏み分け道」を再現したものでしょうか。
訪れたのが冬だったため水は少なめですが、観賞用というよりは水遊び場として作られているので、夏になればお子さんたちで賑わうのではないでしょうか。
実際にお子さんたちで賑わっていたのが木製のアスレチック遊具で、保育園児たちがたくさんよじ登っていました。
そして遊具の西側には、後になって追加開園した区域があります。
工事中だったのですが、砂場や揺れる動物遊具などがあり、本体部分よりも低年齢層を狙った遊び場仕立てになっています。
災害時に備えた井戸やマンホールトイレなども作られており、本体部分の防災機能を補強する形になっています。
災害時に備えた井戸やマンホールトイレなども作られており、本体部分の防災機能を補強する形になっています。
本体が開園した後に阪神・淡路大震災が発生し、実際の災害時に必要となったものが具体化され、新たに付け加えられた流れが見て取れます。
地域の皆さんの街づくり、公園づくりへの思いがギュッと詰まった北沢公園でした。
(2020年12月訪問)
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