鳥居をくぐった左側に建つのは、日清・日露戦争での戦没者を慰霊顕彰する忠烈靖献之碑。明治39年(1906年)に建てられたものだそうです。
亡くなられた方を弔う気持ちは大切ですが、同時にこの勇ましさが後の様々な悲劇の遠因となったことも知っておくべきだと考えて、いつもチェックしています。
こんなに近いところに遊具があると、七五三のお参りに来た子供が遊びたくなるのを、親御さんたちが「今日はきれいな服を着ているんだから!」と止めているシーンが勝手に目に浮かびます。
碑の両面に、最初の建設趣意と、後の移転の経緯とがそれぞれ刻まれていました。
そして、公園敷地の一番奥には、長岡市戦災殉難者慰霊塔が建てられています。
昭和33年(1958年)に平潟神社境内に建てられたものが老朽化したために、平成7年(1955)にこの場所に移転・修復したものだそうです。
建設趣意の方では亡くなられた方は1300余ですが、その後に犠牲者に関する調査などが進んだり、「空襲関連死」のような方が確認されたりしたのでしょうか、50年後に記された解説板では1400余に増えています。
■建設趣意
昭和20年当時の長岡市は戸数1万3千、人口6万7千余でありました。
それが8月1日の戦災で、わずか2時間ばかりのうちに8割2分に当る家屋を焼失し、市長の殉職をはじめ1300余の市民がその犠牲となったのであります。
それから13年その惨状は昨日のことのように、今なお市民の記憶から離れないのであります。
この塔はその殉難の霊を慰めるとともに、このような不幸を再び繰り返さないよう願いをこめて一般からの寄附及び県と市の補助金によってこれを建設したものであります。昭和33年8月1日 長岡市戦災殉難者慰霊塔建設委員会
■現地の解説板より「長岡市戦災殉難者慰霊塔」
昭和20年(1945)8月1日の夜長岡市は空襲を受けた。
大量の焼夷弾が投下され、旧市街地の約8割が焼失、1400余名の尊い命が奪われた。なかでも平潟神社境内では多数の人びとが犠牲となった。
その惨状は市民の胸奥から消えず、有志たちが発起して、昭和33年平潟神社境内地に慰霊塔を建立した。
その後、歳月の経過とともに老朽化が進んだため、戦災50周年にあたる平成7年、市民の浄財も得て長岡市がここに移転修復した。
塔内には鎮魂と平和の願いをこめ、犠牲者の名簿が収められている。長岡市教育委員会
そして、総務省がHPで公開している「国内各都市の戦災の状況」から抜粋すれば、空襲翌朝の平潟神社の様子は次のようであったそうです。
●長岡市における戦災の状況(総務省:一般戦災死没者の追悼)悪夢の一夜が明けて人々が目にしたものは、一面の焼け野原と黒焦げになった無残な遺体だった。当時の長岡警察署の警部の『戦災メモ』には、次のように記されている。「2日の朝早々に市内をひとめぐりして平潟神社の境内に足をとめた。言いようのない臭気が鼻をつく。屍々累々とはこのことだろうと思った。死体は衣服が焼け、半裸か一糸纏わないものが多かった。母親が子どもの顔を抱きしめているもの、母子がお互いに離れまいとして、手と手を握り締めているものなどで、婦女子なだけにひとしお哀れであった。思わず合掌せずにはいられなかった。
亡くなられた方が一番多かったのは、平潟神社と柳原の神明さまの境内、そこに掘られた防空壕。それに、その近くを流れる柿川の中であった。……」遺体を焼く火は三昼夜も続いたという。そして長岡空襲から2週間後の8月15日に終戦の日を迎えた。
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