現在の橋は関東大震災からの復興事業として1927年(昭和2年)に架けられたもので、これの橋詰の広場が大橋公園と名付けられています。
ただ「おくのほそ道」には、舟を下りたのは千住だとしか書かれていないそうなので、千住大橋の北詰にある公園に、こんなに顕彰碑やら石碑やらを建てまくって良いものか、少し心配です。
まぁ舟を下りてから歩いて北に向かったので、北千住に下りたのだろうとは思いますが、ちゃんと南千住(荒川区)と話を付けておかないと後々揉めそうで心配です。そして、ここが松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅へと出発した場所だということで、「奥の細道矢立の地」という大きな石碑が建てられています。
■現地の解説板より「おくのほそ道と千住」
日光道中と奥州道中の初宿千住宿にある千住大橋は、文禄3年(1594年)に隅田川に架かった最初の橋で、江戸から北関東、東北への出発点でした。
元禄2年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曽良とともに、千住大橋付近から俳諧紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。
その後、千住地域は芭蕉の俳諧を追慕する地となり、文政3年(1820)には琳派絵師の酒井抱一が顕彰したのをはじめ、下図の通り現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。
現地の解説板の双六のような絵にもあるように、私としては芭蕉が深川の住まい・芭蕉庵を引き払った時が旅の出発なのだと思うのですが、そこから舟で隅田川を上り、江戸を離れた時が出発とみなされるのでしょうか、ここ千住が出発地ということになっているようです。
ただ「おくのほそ道」には、舟を下りたのは千住だとしか書かれていないそうなので、千住大橋の北詰にある公園に、こんなに顕彰碑やら石碑やらを建てまくって良いものか、少し心配です。
石碑を避けて少し園内の坂を下りると、トイレなどのある小広場があり、ここには幼児向けの遊具も設置されています。
正直なところ子供が遊びに来るようなシチュエーションの公園には見えないのですが、やっぱり遊具の需要があるのでしょうか。
そして、小広場の奥へと進むと、コンクリート製の護岸擁壁に「橋詰テラスへどうぞ」と案内板が出ていたので、
言われるがままに階段を登ると、
わざわざここまで来いと標識が出ているのは、「ここに芭蕉翁の乗った舟が着いたんだよ」というアピールなのでしょうか。
もうちょっとアイテムを整理しても良いと感じた大橋公園でした。
(2019年12月訪問)
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