浦添市茶山は、琉球王朝の時代には王府直営の茶畑が広がり、また王家の別邸である茶園之御殿(茶山之御殿とも。首里にあった御茶屋御殿とは別)もあったという地域です。
そこに、戸建て住宅団地の開発が始まったのが本土復帰前の1968年(昭和43年)だそうで、日本本土の住宅公団をモデルとして設立された琉球土地住宅公社が初めて手掛けた、すなわち沖縄県で初の郊外型戸建て住宅地であったとされます。
そんな茶山団地にある茶山第2公園は、近所の小学校の卒業記念で描かれた壁画が目立つ小公園です。
隣に建つ中層建物との間に擁壁があり、そこに幅20メートルくらいに渡って描かれているので、正面からでは一枚の写真に収まりません。
絵柄は琉球王らしき人物が、現代の子供たちの肩を抱いているというものです。
浦添は「てだこ(太陽の子)」と称された英祖王(在位1260-99)の出身地なので、そのあたりを意識した図柄でしょう。
右端にはグスクも描かれているので、やはり英祖王でしょうか。
ここから500メートルほど離れた浦添城跡は、英祖王の居城でした。
左端には沖縄都市モノレールと未来の浦添を象徴するかのような高層ビル群。
でも、モノレールのすぐ後ろにそびえているのは上海タワーのようにも見えます。私のようなオジさんは「こういう構図の中に、もう東京タワーは描かれないんだな...」と寂しく思います。
また、このように「たくさんの子供と、それを優しく見守っている一人の大人」という構図からは、どこかしら歪なものを感じてしまいます。でもそれは、きっと私の心が偏っているからで、壁画を描いた人たちはなにも悪くありません。
写真:ニューズウイーク日本版ウェブより https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/09/post-8489.php |
さて、そんな壁画に目を奪われる茶山第2公園ですが、敷地の北端に小さな盛土山がありました。
ここに登って全体を見渡すと、おおむねこんな感じ。
奥の高木の向こうにも敷地は続いているのですが、少し湾曲しているため見えづらくなっています。
手前に見える大きな砂場の中には、複合遊具とブランコが設置されています。
落下時の安全対策としては、ウレタンマットを下に敷くことが多いのですが、個人的にはこのように全部砂場の中に置いてしまうという方式も嫌いではありません。
ただ、どうしても遊んだ後の靴の中が、砂まみれになってしまうのが難点です。
ブランコはツリー型、もしくはサボテン型と呼んでいる1本足のタイプ。
その頂上には、太陽のマーク。やっぱり「てだこのまち」ですね。
そして、屈曲部まで行って、盛土山からは見えていなかったあたりを見ると、こんな感じ。こちらは一面の草芝敷きの広場になっています。
ステージもあって、ちょっとした町内のイベントなどに使えそうです。
一幅の壁画から、色々なことを考えた茶山第2公園でした。
(2020年1月訪問)
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