福岡県田川市にある石炭記念公園の第2回(第1回はこちら)。
第1回では、誇らしくも懐かしい、日本の近代化を引っ張ってきた炭鉱の歴史を記念するようなアイテムをまとめてきました。
しかし、炭鉱といえば暗く危険な地下で粉塵まみれの厳しい労働環境は夙に知られたところで、また人も町も石炭産業に頼りすぎたために閉山の影響が甚大だったというのも隠せない事実です。
第2回では、そのようなB面の炭鉱町の姿を記念したアイテムの数々を記録します。
例えばこちら、田川のシンボル二本煙突を模したかのようなモニュメントですが、じつは筑豊じん肺訴訟の記念碑。
筑豊地域の炭鉱で働いて「じん肺」に罹患した元炭鉱員のみなさんや、それが原因で亡くなった方のご遺族ら数百人が、防止義務を尽くさなかった責任を問うて三井鉱山を始めとする炭鉱6社や国を相手取って起こした訴訟です。
1985年(昭和60年)12月26日の提訴から最高裁で国の責任が確定した2004年(平成16年)4月27日まで18年4ヵ月がかかった大きな訴訟でしたが、その際に用いられた合言葉「俺たちはボタじゃない」が記念碑にも刻まれています。
この巨大なボタ山(手前の2コブの山)を臨む公園内に「俺たちはボタじゃない」という訴えが刻まれていることに、非常にリアリティを感じてしまいます。
鉱山業以外にも、粉じんやアスベストなどに関わる仕事では、じん肺がついて回ります。
そうした方々に対する支援を行なったり、国への救済措置などを働きかける団体なのでしょうか「全国じん肺患者同盟記念植樹」というのもありました。
石碑はあるのですが、植樹されたはずの樹が枯れてなくなっているのが残念なので、なんとかしてあげたいところです。
じん肺はやや間接的に労働者の健康や命を蝕むものですが、もっと直接的にはガス爆発、落盤、出水などの事故で犠牲になる方も出ます。
そうした方々のための「田川地区 炭坑殉職者慰霊之碑」が、第1回で登場した駐車場のさらに上の方にあります。
■碑文より
昔、燃える石と言って重宝がられた石炭は、明治維新による西洋文化の導入と、産業の近代化に伴い、筑豊は我が国最大のエネルギー源となった。富国強兵の国策は不幸にして、日清日露の戦役となり、満州、支那事変と止まるところを知らず、遂に、世界を二分する太平洋戦争に突入、爾来4年、人類史上計り知れない惨禍と犠牲をもたらし、昭和20年8月15日終戦を迎えたのである。
失意と絶望と廃墟の中に起ち上がった我が国は、驚くべき努力と英智によって、ここに世界の経済大国として再び奇蹟の復興を遂げたのである。戦争中には徴用や各国捕虜等、老若男女を問わず石炭増産に狂奔し、また戦後は祖国復興の為、大小300余の炭坑、中小無数の採掘の活況は実に壮観であった。然し一方、瓦斯爆発、落盤、出水、坑内火災等の被害も又甚大で殉職者は推定2万人とも言われている。やがてエネルギー革命により、100年にわたる炭坑の灯は消え栄枯の歴史の幕は閉ざされた。
今日、吾が郷土の発展の陰には、貴いこれら炭坑殉職者のいることを決して忘れてはならない。茲に奇しくも地域住民、諸団体等の賛同のもとに、此の碑を建立し、諸霊のご冥福を祈り感謝の誠を捧げるとともに、末永く筑豊炭田の歴史を伝えんとするものである。
芦馬豊雲撰文
慰霊碑の撰文を務めた有馬豊雲氏。
詩文に通じた方のようで、「慰霊之詩」という漢詩も寄せておられます。
戦前・戦中には、中国大陸や朝鮮半島出身の方々も炭坑で働き、中には殉職された方もおられます。その慰霊碑も、それぞれ建てられています。
こちらの黒御影のものが「強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑」で、表面には27名の方のお名前が刻まれています。
■現地の碑文より「建立にあたって」
かつて15年戦争の末期(1943年~1945年)日本政府は国内の労働力不足を解消し、戦時下の生産力を維持するため、当時侵攻していた中国大陸での中国軍俘虜および行政供出によって中国人38935名を日本国内に強制連行した(内6830名死亡)と記録されている。
その中で、三井鉱山田川第二・第三坑に668名が送り込まれ、終戦まで石炭生産に従事させられたのである。その間、6名が作業現場で災害により殉職、21名は病死(内3名獄死)で不帰の人となった。これら殉職者の冥福を心から祈るものである。歴史を鑑に恒久平和を願って・・・
一方、こちらは韓国人徴用犠牲者慰霊碑。墓塔のような形で、公園内でもひときわ高い丘の上に建立されています。
碑文はハングルなのですが、そばに日本語訳がありました。
■現地の「碑文訳」より
この世に生をうけたものは、皆等しくその生を享受することができる。
鳥は空に舞い、魚は水に遊び、命の限り生を楽しむ。まして、万物の霊長たる人間は、さらに言うまでもない。
思えば、大韓帝国末期、日本は「日韓併合」の美名のもとに人道に悖る政策を断行した。特に第二次世界大戦が勃発するや韓国人の徴用、強制労働は、さらに苛酷なものになった。
なつかしい故国と父母、妻子、兄弟、姉妹、親戚とも引き裂かれ、不慣れな風俗、人情の地、日本に強制連行され、戦争にかり出され、また、労役に苦しめられた。そして、ついには、夢寐にも忘れぬ父母、妻子、美しい故国の山河を二度と見ることもなく逝ったのである。
されば極まり無い数多くの御霊の痛恨はいかばかりであろう、いつになったら晴れるであろうか。
歳月は無情にも流れ、はや40有余年を重ね世の中は大きく変わった。しかし、この先いかに歳月を重ねようとも、この凄惨な事実が埋もれてしまうことがあってはならない。
よってこの地に在住する同胞ここに集まり、ささやかながら、この石碑を建立する。
否塞な国運と共に犠牲となった同胞の御霊を末永く慰め、再び不幸な時代を繰り返させぬよう戒めの標とするものである。
冥界の御霊よ、願わくばその恨みを忘れ給え。そして安らかにねむり給え。
この慰霊碑が建つ丘の途中には、韓国の龍井中学校と日本の伊田中学校の交流記念碑というものも建っていました。
こうした数多くの方々の関わりと犠牲の中で続いてきた伊田の炭坑ですが、1964年(昭和39年)に閉山となります。その時期に頑張った市長さんの銅像がありました。
■碑誌
坂田九十九氏は明治31年11月1日、瀧次郎翁の次男として鞍手郡鞍手町に生まる。資性剛毅にして義理人情を重んじ、よく衆望を集む。田川市議会議員、福岡県議会議員を経て田川市長に就任、併せて全国鉱業市町村連合会会長、石炭鉱業審議会委員に推挙され、在人20有余年に及ぶ。
この間エネルギー革命はわが国経済界を席巻して炭鉱の雪崩閉山を惹起し、郷土は存亡の危殆に瀕す。氏は産炭地自治体の命運を負って肝胆を砕き、対策の確立を促進し、民生を安定に導き、緑の工業都市建設の基盤造成など、市政における功績は枚挙に遑がない。
さきに勲三等瑞宝章叙勲の栄に浴されたのは宣なりというべく、茲に有志発起し市民を挙る協賛により寿像を建設し同氏の献身と不退転の信念を後世に伝えんとするものである。(昭和52年11月3日 東京大学名誉教授 有澤廣已)
まぁそういうわけで、炭坑の栄華は遠くになり、今はこんな感じです。
種田山頭火が田川に来たのは、坂田九十九氏が奮闘した廃坑の時期よりもずっと前のはずですが、どこの廃坑のことを詠んだのでしょうか。
盛りだくさんで長尺の記事になってしまった石炭記念公園でした。
(2019年11月訪問)
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