箱崎公園は、本ブログにはしばしば登場する、関東大震災からの復興事業でつくられた学校公園の一つです。現在は、隣接地にあった箱崎小学校が廃校となって用途転換されたため、公園だけが残っている格好です。
現在の公園は、50メートル四方くらいの敷地の中央に楕円形の芝生広場を置き、それをグルリと園路が囲むような仕立てになっています。
芝生部分は陽あたりもよく、なかなか良い生育状態を保っていました。
逆に言うと、やたらと踏みつけられるほども利用がないということかも知れませんが。
芝生の北側が遊具広場。
背の低い複合遊具や揺れる乗り物遊具など、低年齢向けの遊具が何点か置かれています。
あと、フェンスに囲まれた砂場があったのですが、訪れた時は「故障中のため使用禁止」になっていました。
砂場が故障するとも思えないので、フェンスのドア部分などに不備があったのでしょうか?
また、芝生の南側には、噴水型の小さな水遊び場がありました。
サイズ的には幼児向けのごく小さなものですが、暑い日には、近所にひとつあると嬉しいタイプの施設です。
そして、芝生の西側には、この公園を特徴づける「吉田松陰像」もあります。
建てられたのは1938年(昭和13年)ですので、現在の公園の中では、おそらく一番ベテランの施設です。
講義中の光景でしょうか、左手に書物を持って前を向く、凛とした表情の座像です。
■現地の解説板より「吉田松陰像」
現在の水天宮ピットの場所が、旧東京市箱崎尋常小学校として使われていた昭和12年(1937)の末、当時6年生の児童であった岩井光子さんが病気で亡くなった。
光子さんは成績優秀なうえ、特に吉田松陰の生き方に深く感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で、学校内に吉田松陰の銅像を立ててくれるよう両親に遺言を残した。
両親は生活が苦しい中でこの遺言を実現し、昭和13年(1938)3月22日に除幕式が盛大に催された。当時この話は教育美談として東京日日新聞に表彰され、時の文部大臣や東京市の関係者など多数が参列した。吉田松陰像は竹山蘭山が製作するとともに、話に感銘を受けた当時の海軍大将高橋三吉が台座の「松陰先生」の文字を揮毫した。
昭和19年(1944)4月、小学校は全児童が戦火を逃れるため疎開したのち廃校となったが、吉田松陰像は同じ場所で日本橋箱崎町の変遷を見守り続けてきた。
平成22年度に都立日本橋高校の移転と箱崎公園改修工事にあわせ、吉田松陰像をこれまで以上に町の方々に親しんでいただくため、この場所に移設することとなった。
平成23年(2011)3月
遊具の後ろに見える白い建物が、岩井光子さんが通っていた、かつての箱崎小学校の建物。
現在は水天宮ピット(正式名称「東京舞台芸術活動支援センター」)という貸しスタジオ施設として使われており、公園との境界にはしっかりとしたフェンスが建てられていました。
吉田松陰像の解説にあるように、戦時中の学童疎開のために小学校としては廃校となり、1944年には日本橋高校に転用されているので、比較的早い段階で学校と公園とが切り離されたのではないかと想像します。
一方、公園の南隣にそびえ立つのは、25階建ての日本IBM本社ビル。
低層階にはテナントとして保育園も入っており、現代では旧・小学校よりも、こちらのビルの方が公園とのつながりが強いかも知れません。
あたりの変遷を見つめてきた日本橋箱崎町の箱崎公園でした。
(2019年8月訪問)
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