2205/1000 旧国鉄高砂駅跡付近の緑地(兵庫県高砂市)

2019/08/25

高砂市 鉄道遺産 兵庫県

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さて、高砂市の中心市街地のやや西から南部の高砂港に向かって、1984年(昭和59年)まで国鉄の高砂線が通っていました。
その跡地は緑道になったり、一般道になったりしているのですが、途中の高砂駅の周りだけが公園風になっています。

上の写真は、旧高砂駅跡の北端付近から、北方向を見たところ。
高砂市街地の廃線跡は、基本的には緑道になっているのですが、この150メートルほどの区間だけが一般道になっています。
おそらく、旧駅と関係の深かった駅前商店街との接続などを意識して、バスや一般車両が入ってこられるようにしたのではないかと思います。
昭和50年代はじめの高砂市中心部

■現地の石碑より「国鉄高砂駅跡」
加古川流域の特産品などの貨物輸送及び旅客輸送を目的に設立された播州鉄道が、三菱製紙、鐘淵紡績の貨物及び旅客輸送のために高砂と加古川を結ぶ路線として、大正3年(1914年)9月、延伸開通し、白砂青松で名高いこの地に高砂駅、高砂浦駅(後の高砂港駅)が開業し、加古川の舟運が終えんを告げた。
大正12年(1923年)12月、播丹鉄道に譲渡された。
昭和18年(1943年)6月、造兵廠の設置等に伴い国有化され国鉄高砂線となった。
戦後、沿線への企業進出に伴い活気を呈していたが、モータリゼーションの進展による貨物・旅客輸送量の減少等により、昭和59年(1984年)2月に高砂駅-高砂港駅間が、同年11月末に加古川駅-高砂駅間が廃止され、高砂駅も廃止された。

高砂みなとまちづくり構想推進協議会

そして、先程の位置から振り返るとロータリーになっており、中央部に鉄道の車輪が飾られています。

明確に鉄道跡を主張するものはこれくらいです。

ロータリーから南へ向かうと、すぐに緑道プラス広場の空間になります。

もう少し進むと細長い緑道になるのですが、この付近だけ広場スペースを取れているのは、駅だったころに複数線路が並んでいたからだと思います。

さらに数十メートルほど南に進むと、江戸時代に建てられた学問所・申義堂(移設復原)の建物が見えてきました。
その周りは石張りの広場になっており、見学などで多数の人が集まってきても対応できるようになっています。

残念ながら、訪問時は休館日でした。
ちなみに、この申義堂がもともとあったのが、No.2202 あじさい児童公園の隣の高砂地区コミュニティセンターの場所だと言うので、No.2202付近の、往年からの公共用地っぷりが見て取れます。

■現地の石碑より「申義堂」
申義堂は、江戸時代(文化年間[1804~1818]頃)に、姫路藩の家老河合寸翁(かわい すんのう)の建議によって庶民教育を行うために設立した学問所で、高砂町北本町(現高砂地区コミュニティセンター)に建てられました。申義堂での教育は、朱子学が中心で素読、 会読、輪読が行われました。教授陣には、地元高砂の学者である菅野松瑦や美濃部秀芳などがいました。近世学問所の建造物として歴史上価値が高いものです。
この建物は姫路藩で唯一残る郷学として庶民教育がなされました。座敷とそれに付属する奥の間と正面縁側という極めて簡素な構成です。正面玄関には飾瓦露盤が葺かれ、小規模ですが学問所として威厳が保たれています。
申義堂の土地・建物は、姫路藩六人衆、高砂の大年寄である岸本吉兵衛が提供しました。建物は、明治維新後廃校となり、明治12年光源寺の説教所として西井ノ口村(現加古川市東神吉町西井ノ口)に移築されました。平成2年に行われた高砂市・加古川市両文化財審議委員会による調査の結果、移築復元すべきとの意向を受け、高砂町に復元をすることとなりました。平成23年に高砂市指定文化財に指定されました。
この移築復元にあたっては、㈱カネカからのご寄付を原資としております。

鉄道がなくなり、産業構造も、人の暮らしぶりも変わってしまいましたが、高砂銀座商店街の入口として残る、旧国鉄高砂駅跡付近の緑地でした。

(2019年5月訪問)

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