代官山駅や渋谷駅からほど近い、渋谷区猿楽町(さるがくちょう)。
ヒルサイドテラスから300メートルほど離れたところに、「猿楽古代住居跡公園」という、名が体を表わしている小公園があります。
前面の道路よりも1メートル以上あがったところが公園敷地です。
たいていの場合、古代の遺跡は地面よりも下にあるものですが、遺跡保存のために少し土をかぶせることもあります。また古代の住居は、水はけなどを考えて元々周りよりも少し高くなった場所に設けられることもあります。ここの場合はどちらでしょうか。
階段を上がり、夜は閉じられる門を通って園内に入ると、だいたいこんな感じです。
1,000平米ほどでそれほど広くもない敷地内に、古代住居跡に関する展示施設だけでなく、パーゴラと砂場もあります。
ほかに遊具もないので、そろそろ砂場も廃止して良いように思うのですが、どうでしょう。
敷地の一番奥に、柵に囲まれた窪みがありました。これが古代住居跡。
でも解説をよく読むと、古代住居跡の復元の跡であるようです。
■現地の解説板より「猿楽古代住居跡」
渋谷区指定史跡 猿楽町12このあたり一帯は古代人が居住していたところであろうと推定されていました。
昭和52年1月、渋谷区教育委員会ではその調査を国学院大学考古学第一資料研究室に委託して発掘しました。
発掘作業を行っているうちに出土して来た土器は壺、甕、高坏などの破片ばかりでしたが、この土器に付けられた模様からみると、久ヶ原式、弥生町式、前野町式に属し、それらが作られた時期は今から約2000年前の弥生時代で、これらの文化は南関東一帯にひろがっていました。
弥生時代というのは、生活の方法はその前の縄文時代と同じですが、現代人のように米を栽培して食べる習慣がはじまり、文化が進んだ時代といえます。
発掘を進めて行くと、いくつかの住居跡が発見されましたが、中には他の地域でみられる住居跡よりも大型で珍しいものが発掘されました。
区は昭和53年、樋口清之博士の指導により古代住居を復元しましたが、その後焼失したので、現在は住居跡の上を被覆し保存に努めています。
渋谷区教育委員会
隣に建つ展示ブース内に、健在だった頃の復元住居と思しき写真が展示されていました。
改めて、現在の窪み。
焼失後の整備も40年以上前のことだと思われるので、昨今の屋外展示と比べると古臭い感じもしますが、雰囲気は伝わってきます。
なによりも、公園の周囲が宅地化→商業地化と進んできて、古いものがどんどん無くなっている渋谷界隈では、土地の履歴を思い起こさせる貴重な物件だと言えます。
窪みの中央付近に何かが埋め込まれていたのですが、詳細は不明。
復元建物があった頃、何かしらの展示品を地面に固定していた跡なのかも知れません。
でも木の陰、フェンスとの隙間という、結構どうしようもない場所に詰め込まれており、居候はつらいよと言ったところです。
それこそ、砂場はなくして石碑スペースにしても良いくらいだと思うのですが。
■現地の解説板より「廿三夜塔(1基)、庚申塔(3基)、道しるべ(1基)」
猿楽町12番先 猿楽古代住居跡公園区指定有形文化財 平成31年1月10日江戸時代に流行した民間信仰のひとつに、23日の夜に集まって月の出を待つ講中(グループ)がありました。これを廿三夜講といい、室町時代からすでに行われており、それを記念して建てられたものが廿三夜塔です。この廿三夜塔(右から2番目)には、「廿三夜待一結衆」と刻まれており、さらに勢至菩薩が彫り込まれていることが特徴です。
また、庚申講も行われており、60日ごとにめぐってくる庚申の日に、人々が集って念仏を唱え、一晩中眠ることなくすごしました。その結衆として建立されたのが庚申塔です。表面には、青面金剛、天邪鬼、日月、三猿などが彫ってあります。これらの講は、のちにレクリエーションとなり、飲食をしながら一夜を明かすようになりました。
道しるべは、石の傷みが激しく「左目黒道」と読むことはできますが、「右□□□道」と文字が欠損しており、具体的な道の名前はわかりません。
これらの石造物は、猿楽周辺にあったものが、道路拡張工事や宅地開発によって移動させられ、猿楽古代遺跡住居跡公園に移設されることとなりました。渋谷区教育委員会
と、まぁ気になるところはありつつも、間違いなく渋谷~代官山エリアにとって重要な存在なので、これからも少しずつリニューアルしながら大事にして欲しい猿楽古代住居跡公園でした。
(2019年3月訪問)
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