出入口周りの外壁には、どことなく工場や溶鉱炉を想起させる、赤茶けた色合いのアートが備え付けられています。
実際には、下の方に小さく "KIKKŌ" とプレートがあるので、亀の甲羅(亀甲)をモチーフとしたもののようですが。
園内に入ってみると、隣りにある小学校の校庭が公園の西側エリアに張り出してきており、公園敷地の東側が広く、西側が極端に狭い変形の敷地形状となっています。
公共用地の少ない都心部では、しばしば見られる「学校公園」の一形態ですが、共存共栄と言うよりは、かなりはっきりと公園用地が校庭に食われています。
狭い区間にガッシリとした作りの門扉が2つもあるところから見ても、公園と校庭とを一体的に使うような利用方法は、実際には行われていないものと思われます。
校庭側が広がった結果、ブランコや鉄棒は、西ブロックの狭苦しいところに押し込められています。
滑り台と、揺れる乗り物遊具は、まぁまぁ広いところにあるのですが。
ところで、この「ぶんせん」という公園名を見たときに、私が最初に思い出したのは塩昆布製品(アラ!、塩っぺ等)を販売している「ブンセン」社でした。
しかし、ブンセン社は兵庫県たつの市にある関西で有名な企業なので、江東区とはとくに関係がなさそうです。
では、文泉公園の「ぶんせん」はどこから取られたのかと調べてみると、公園の近くにそのヒントがありました。それがこちら。「亀戸銭座跡」の記念碑です。
■現地の解説より「亀戸銭座跡」
亀戸銭座は、江戸時代の銭貨・寛永通宝の鋳造、発行を行った機関で、現在の都市再生機構の亀戸二丁目団地付近にありました。寛永通宝の背面は無印のものが多いのですが、寛文8年(1668)から天和3年(1683)までここで造られた寛永通宝には「文」の文字が入っており、「背文銭」といわれています。
解説板には「背文銭(せぶんせん)」と書かれていますが、「文銭(ぶんせん)」とも言うので、これをもじって「文泉」を公園名にしたのではないかと思われます。
ここで再び、ブンセン社。
同社のHP内「なるほどブンセン」に、こう書かれています。
社名の「ブンセン」は、寛永通宝の裏面に「文」の文字が入った種類のものがあり、これを「文銭(ブンセン)」と称し、大変ゲンがよいと当時の人たちに珍重されていました。これに由来して、醤油の登録商標とし、後に社名となりました。
なんと、結局どちらも由来は同じだったとは!
思わぬ結びつきに気がついてしまった文泉公園でした。
(2018年12月訪問)
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