1852/1000 茶屋坂街かど公園(東京都目黒区)

2018/07/22

狭小公園 東京都 目黒区

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茶屋坂街かど公園は、読んで字のごとく、古くから名の付いていた茶屋坂沿いの街かどにある狭小な公園です。
下写真でY字路の左側が茶屋坂。Y字路の間の公園は、細長すぎてうまく写真にならないのですが、目黒区の資料によれば面積は105平米の三角地です。

茶屋坂の上の方から撮影すると、こんな感じ。
狭い割に出入口が4つもあって、もっぱら通り抜けを意識している様子がうかがえます。

施設としては、花壇と、茶屋坂、清水を記念する石碑があります。

江戸時代、この坂沿いに「爺々ヶ茶屋」と呼ばれる茶店があり、そこが落語「目黒のサンマ」の舞台になったとも言われているそうです。

■現地の解説板より「茶屋坂の清水と碑によせて」
落語で有名な「目黒のサンマ」の話のもととなったといわれている爺々ヶ茶屋は、現在の三田2丁目に位置する茶屋坂の途中に、その由来を示す説明板があります。
この爺々ヶ茶屋は、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら、湧き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。
こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も、昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。
その時、この清水を惜しんだ、分譲地の一画にあった水交園の管理人夫妻が、清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は、守られ、次の世代へと受け継がれてきました。
その後、この清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として付近の人々の命を救ったのでした。
この碑は、戦後、「茶屋坂の清水」の由来を永く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々により建てられました。残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが、唯一、当時を語っています。
目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を、受け継ぐ意味から公園を移動しました。この碑の心が区民の皆様にも永く伝えられ、当時を偲ぶ資料となれば幸いです。

平成7年3月 目黒区土木部公園緑地課

ということで、車止めには「目黒のさんま之図」が描かれています。

意外なところで意外なものに出会った茶屋坂街かど公園でした。

(2018年4月訪問)

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