平野区ではないのに平野白鷺公園というのが微妙ですが、東住吉区からの分区によって平野区が誕生したのが1974年(昭和49年)、この公園が誕生したのは1939年(昭和14年)のことですので、元々は「東住吉区内の平野エリアにある白鷺公園」で平野白鷺公園だったものが、分区・区界設定の都合で東住吉区になってしまったものではないかと考えます。
手元にあった1939年(昭和14年)12月号の『公園緑地-大阪特集号』(公園緑地協会)には、当時の計画図が掲載されていました。老朽化にともなう施設更新は行なわれていますが、全体的な土地利用や園路配置は、この図の頃から大きく変わっていないようです。
中央の南北に周囲の区画道路から直進する幅広な園路を設け、園路の東側は園地・樹林地、西側は大きなグラウンドになっています。
グラウンドは軟式野球なら2面同時に、少年野球なら頑張れば4面同時に取れるくらいの広さがあり、ナイター照明も整っています。
グラウンドの奥に見えるのが、東側の園地部分に育った樹林地。
園地の中央には、ステージや遊具コーナーが設けられていますが、平日の夕方に訪れたため子供がたくさん遊んでいたので、遠いところから少しだけ。
遊具コーナーでは、石の山遊具、小ぶりな複合遊具などが人気でした。
一方、その周りをグルリと囲む園地にはクスノキ、カシ、ケヤキ、マツなどの樹林地が広がります。
このあたりは、大正時代までは田んぼだったところなので、公園整備の際に植えたものが80年分育って、この状態になったのでしょう。あまり緑が多くない一帯においては、貴重なまとまった緑だと言えます。
子供たちは、この森の中を走り回っているだけでけっこう楽しめることでしょう。
園地の一角には、阪神・淡路大震災の鎮魂植樹として、枝垂れ桜が植えられていました。
この付近は直接に被害が大きかった地域ではありませんが、阪神地域のことを想って植えられたものと思われます。
■碑文より
平成7年午前5時46分
阪神震災鎮魂植樹
犠牲者5504餘人のご冥福を祈る
●阪神・淡路大震災を語り継ぐモニュメントについてはこちらも
(2017年12月訪問)
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