このため現在のJR線のあたりから緩い坂道で上っていく格好になっており、付近の町名が西之阪町。すぐ隣には油坂町という町名もあるので、坂道が何本かあったのかも知れません。
そんな西之阪町に、名称不明の遊び場がありました。
とは言え、唯一の出入口には車が突っ込んで止められており、園内にもゴミが散乱しているなど、地域でそれほど大事にされていない様子が伝わってきます。
駅に近い住宅地ではあるのですが、公園の直近には古い市営住宅が多いため、公園を頻繁に使う年代がもうあまり住んでいないのかも知れません。
園内は一面の草敷きの中に、滑り台、ジャングルジムなどの遊具がバラバラと置かれており、全体が大きな遊具広場のような格好です。
遊具はどれもねずみ色でベッタリと塗られていて、園内のどことなく荒れた雰囲気に拍車をかけています。
そもそも奈良市の公園は青一色で塗られた遊具が多く、カラフルな彩色は敬遠されているようなのですが、それと比べても、ねずみ一色というのは親しみに欠けるように思います。
このラダートンネルも私の好きな遊具なのですが、ねずみ一色では、今ひとつ心が弾みません。
■松井庄五郎翁頌徳碑(足元の解説では「松井庄五郎氏 顕彰碑」)
大和同志会創立者の一人。1889年12月、西之阪町に生まれる。
東京帝國大学(現東京大学)卒業後、家業の経営にあたっていたが、当時の周辺住民の差別と同和地区住民の生活苦を解決しようと県内の指導者とともに様々な活動をかさね、1912(大正元)年8月に大和同志会を結成し、初代会長となる。
住民自身による自主的な生活改善を進めるとともに部落差別撤廃に向け県内のみならず全国各地での啓発や奨学事業など多様な活動を展開した。後の水平社の結成に参加する多くの人材も生み出している。
この碑は、元古市町にあったものであるが、氏の生誕の地である当町に移転したものである。何故古市町内に建てられたかは、その記録がないので定かでないが当時、古市町の同志会活動は活発で、しかも人力俥夫として働く人も多く俥夫の待遇改善等にも氏が尽力したことなどによりその遺徳を称えたものと考えられる。
松井庄五郎氏を中心とする大和同志会の歩みはときを超えて人権の確立された差別のない社会を想像せよと今も、私たちに語りかけている。
1998年3月 西之阪町自治会
(2018年1月訪問)
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