1763/1000 板谷公園(東京都板橋区)

2018/04/13

史跡 身近な公園 盛土山 東京都 板橋区

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板谷(いたや)公園は、旧・加賀藩の下屋敷跡の一部であるNo.1761 加賀公園の南斜向いにある小公園です。
明治以降に下屋敷跡の広い範囲が軍関係の工場などとして開発された後、昭和に入って、その開発からは外れた区域が住宅地として開発されます。その際に作られたのが板谷公園ですので、公園としての歴史はこちらの方がNo.1761よりもずっと古いことになります。

そこで、板橋区では板谷公園を区の文化財(史跡)として登録しています。
もともと文化の色が濃い庭園などが史跡になっていることは多いですが、ここのようないわゆる児童公園型の公園が文化財登録されている例は珍しいと言えます。

板橋区HPの文化財解説カードより引用
■板谷公園付銘板(いたやこうえんつけたりめいばん)
板橋区登録記念物(史跡)平成21年3月26日登録
板谷公園がある板橋三・四丁目一帯は、船運業を営む板谷宮吉が、昭和10年(1935)1月に大規模住宅地「上御代の台」の造成に着手した場所です。その事業は同13年8月に完成しましたが、その過程で板谷は土地の一部を公園用地として東京市に寄贈し、同市が造成を行い、同12年4月29日に東京市板谷公園が誕生しました。
その後、昭和18年の都制施行に伴い都営となり、さらに、同25年10月1日には板橋区へ移管されました。
現在、公園の出入口には開園当初設置のコンクリート製門柱が残り、その2か所に「東京市板谷公園」、「東京市板谷公園 昭和十二年四月開園」と公園の由来を記した大理石製の銘板が取りつけられています。
このように、当公園はその来歴に板橋三・四丁目地域の歴史が色濃く反映された、区内に現存する最も古い公園です。

「板橋」にある「板谷」なので地名由来のように思ってしまいますが、実際は寄付者の名字なのでした。

また、銘板の方にある「付(つけたり)」の意味は、もともとメインになる文化財があって、それと関係は深く一緒に存在することで文化的な価値・深みが増すけれども、一本立ちで文化財として保護するほどでもないものをメイン物件と一体的に取り扱う際に使う言葉です。

と言うことで、付(つけたり)になっているのが、こちらの園名板と、開園の由来書きの入った銘板。

銘板の方は園名板と比べると傷みが出ていますが、まだ全体を読むことができます。

■現地の銘板より「東京市板谷公園(昭和12年4月開園)」
本園附近一帯は石神井流域三合野原の一部にして
寛文年中加賀前田候の邸地となりしより金澤と呼ばれ由來近郊の閑地たりしか
昭和11年5月土地区画整理に際し所有者板谷宮吉氏は此地1600余坪を公園地として寄付せられ乃ち本園の完成を見るに至れり
茲に開園に際し園地の來由を記し以て寄贈者の芳志を永く後世に傳ふ

昭和12年4月  東京市

寄付者である板谷宮吉さんがどういう人物だったのかは、小樽商工会議所のwebページなどに出ていました。
板谷宮吉さんには初代と2代目がおり、寄付したのは2代目。もともと北海道生まれで、父である初代の跡を継いで板谷商船の社長や樺太銀行頭取を務め、また無報酬で小樽市長を務めたこともある人物だそうです。
小樽で創業された板谷商船は、戦前は国内でも十指に余る海運会社で、戦後は小樽周辺の大地主として存続していましたが、数年前に解散してしまったようです。

さて、そうした歴史的経緯を踏まえた現在の板谷公園。
敷地の中央によく育った樹林地があって、それを挟むように東西に広場があるという構造になっています。

ただし樹林地と言っても鬱蒼として入りづらいものではなく、林下は疎で、トイレや遊具などがそこに配置されています。

シンプルですがあなどれないのが、この盛土山。

高さが大人の背丈ほどありますので、上りきると今までとは違った風景が広がります。
些細なことのように思いますが、子供の遊び体験にはこうした要素が欠かせません。

そのほかにはスプリング式のシーソー、4連ブランコ、ジャングルジムなどが、この樹林に近いところに設置されています。

盛土山を下りて、樹林地西側の広場はこんな感じ。

一方、東側の広場、西側よりはひと回り小さく、滑り台や砂場などがこちらに配置されています。

施設内容からすると、どちらかと言えば東側が幼児向け、西側が児童向けと言えます。

おまけ.
板谷公園の東隣に、漆坊弁財天という小さなお社があります。こちらの由来書きが少々ユニークで、板谷公園とも多少の関わりがあることが記されていたので記録。

●御由来記
此の地三五の原に住んでいました私に、昭和三年の或夜「吾は此処加賀の下屋敷六万五千坪の弁天であるが今は跡形もなくなっている。そなたは此の地に再興せよ」とのお告げがありましたのでお祀りいたしました。
昭和十年区画整理の行なはれましたとき移転するようにと云はれましたが、地主板谷様と話し合いの上、末代まで此の地でこの弁天様をお守りするよう申され今日に至りました。
その後私が屋敷内の草取りをしておりますと、熊手と箒を持った翁が来て「おばさん、此の弁天様は漆弁天とあるが漆ボウ弁天と申すのだ。そのボウは田宮坊太郎の坊である。今後は漆坊弁財天とせよ」と申され姿が見えなくなりました。
本當に有難い弁天様で幸運及び厄除けのご祈祷をいたしています。
※碑文に句読点、カギカッコなどを加筆しています

まず、No.1761の加賀藩下屋敷との絡み、住宅地開発を行なった板谷氏の許可を得てお社を守ったことなどが地域の歴史を踏まえていて面白いですし、元々このあたりが「三五の原」と呼ばれていた点は、公園の銘板にあった「三合野原」と対応しているものと思われます。

ちなみに、この呼び名もそれほど歴史があるわけではなく、地元の板橋第四小学校のサイトによれば「板四小が建てられた土地は、そのころ三合商会という会社が持っていたので三五ッ原と呼ばれ広い野原でした。」ということだそうです。その後、所有者が板谷さんに移ったのですかね。

また、後から出てきた翁が「ボウの字は、田宮坊太郎の坊だよ」と丁寧に教えてくれるあたりも気が利いています。せっかく出てきたのに、間違えて「棒」の字にされたりしたら困りますもんね。

(2018年1月訪問)

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