ちなみに夜寒(よさむ)は熱田神宮の北に古くからある地名で、尾張の歌枕の一つ「夜寒里」として知られた土地だそうです。
公園の斜向かいの小学校前に案内板があったのですが、なぜ「夜寒」というのかは良くわかりません。
●近くの小学校の前にあった案内板より「夜寒里跡」
尾張の歌枕の一つ「夜寒里」の所在地については諸説ある。『張州雑志(ちょうしゅうざっし)』に「春敲門(しゅんこうもん)の北、森の辺とか、本宮の森の北とか、各々の説未だ詳らかならず」とあり、また、延宝六年(1678)の『厚覧草(あつみぐさ)』と元禄12年(1699)の『熱田旧記』には大宮の北、高蔵の南とあり、現在の夜寒町あたりをさしている。
なお、夜寒の地名をとった「夜寒焼」は、辻鉦二郎が明治12年(1879)ころ現在の中区金山2丁目に窯を築き、もっぱら茶器類を焼成したものである。
名古屋市教育委員会
両方から使いやすい場所に設置したのでしょうが、パーゴラの下に座っていると横を人が通り抜けていくので、少し落ち着かないようにも思います。
園内からパーゴラ方面を眺めるとこんな感じ。園内は高座結御子神社の社叢林の続きのようなもので、クスやカシがよく繁って薄暗い雰囲気もあります。
そんな森のなかに、なんとか独立した公園らしい雰囲気を醸し出しているのが、唯一の遊具である滑り台です。
しかし子供が多く遊び場が不足していた昭和の頃ならいざ知らず、今となってはあまり必要ないようにも思います。
滑り台の後ろに見える人工を感じさせる土盛りも、なんらか史跡に関連する遺構であるような気がして、細かなところが気になる夜寒公園でした。
(2017年11月訪問)
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