三ツ塚史跡公園は、国史跡に指定されている白鳳時代の寺院跡(三ツ塚廃寺跡)を公園としたものです。史跡の名称は廃寺跡ですが、隣接地には掘立柱の建物群や寺の瓦を焼いた窯跡なども見つかっており、それら関連施設も含めた史跡としての価値が認められています。
●現地の案内板より「国指定史跡 三ツ塚廃寺跡」
三ツ塚廃寺跡は、7世紀後半(白鳳時代 約1300年前)に建立された寺院跡です。東西に並ぶ3つの基壇は、中央が小規模な金堂跡で、東西は地下式の心礎をもつ塔跡です。講堂跡は不明ですが、この伽藍配置は全国的にも珍しいものであります。
中門の他にほぼ1町の四周に、南門・東門・築地を伴う北門が検出されております。使用された瓦は、素縁八葉蓮華文軒丸瓦と三重孤文軒平瓦で、三ツ塚東南山麓の瓦窯で焼成されたものです。
三ツ塚廃寺跡の周辺に広がる数十棟の掘立柱建物群は、8~12世紀(奈良・平安時代)にあいついで建てられたもので、三ツ塚廃寺との密接なつながりが考えられます。
現在この地(41,976㎡)は、国指定史跡となっております。(指定年月日 昭和51年12月24日)
全体的には池や花のきれいな公園という感じで、はっきりと史跡らしいのは、復元された建物基壇くらいです。
資料によれば中央が金堂、両端が東西の塔だということで、この3つが東西一列に並ぶ伽藍配置は全国的にも珍しいものだそうです。そして、この3つの基壇跡が残っていたことが「三ツ塚」の名前の由来なのでしょう。
3つをまとめて1枚の写真に入れるのが意外に難しいのですが、両端の塔跡は瓦積みで化粧がされてはっきりと基壇と分かる復元となっており、中央の金堂跡はそうした装飾のない芝張り盛土で復元されています。
これは、おそらく塔跡の周りでは敷瓦が見つかっているのに対して、金堂跡の周りでは見つかっていないといった調査に基づく復元方法の違いだろうと考えます。
結果的に、このような金堂跡の状況が、整備前の「塚」の雰囲気を偲ばせるものにもなっています。
西塔跡の基壇上には、塔の心柱の太さを表現していると思われる平面表示がありましたが、詳しい解説がなかったので本当のところがどうなのかはよくわかりません。
一方、東塔の方は、仏舎利を納める舎利孔のある地下式心礎があります。
こちらにはしっかりと解説板が設置されているのですが、あいにくと訪れた日は穴の中に雪が残っていて、これまた何だかよくわかりませんでした。
また、西側に隣接して木製の大型遊具のある遊び場もあって、晴れた日にピクニックがてら訪れたのならもっと楽しめた三ツ塚史跡公園でした。
(2017年2月訪問)
0 件のコメント:
コメントを投稿