入口にいきなり古地図入りの石碑が置かれており、地区の歴史を語っています。
No.937でも触れたように、この「前島」という地名は、文字通り「目の前にある島」の意味で、大正の頃から海岸と島との間の低湿地帯が埋め立てられて今のような町になった地区です。
戦後に区画整理事業が実施されて塩田や潟原の姿は遠いものになりましたが、上の解説板には1700年ごろの那覇の地図と、前島町の歴史が刻み込まれています。
●現地の解説板より「前島町の歴史」この一帯には干潟潟原があり長い間製塩業が行なわれていた。前島町の潟原塩田においては1853年アメリカの水師提督ペリー一行が兵士の訓練を行ったのを始め、昭和の初期迄奥武山の競技場ができる迄は全琉の陸上競技大会、野球大会、三大節における競馬が行われたり、サーカス、自動車練習場として活用されたのである。島津の琉球入り後、300有余年続いた沖縄の製塩史が日本復帰と共に終わった。平成15年7月吉日
さらに園内のスツールの座面には、地区のマップと名物などが彫り込まれていました。
たとえば塩田。塩砂を掻いている人だけでは絵にならないからか、あるいは実際に塩を炊く釜のある屋敷などがあったのか、建物が目立つ構図になっています。
夫婦石。No.179 夫婦瀬公園で登場した岩のことだろうと思います。前島地区から見ると北の方角にあるのですが、伊勢の夫婦岩よろしく朝日が昇っています。
3丁目マップは、さすがに細かすぎて何がなんだか分かりません。
さて、現在の園内はと言うと、三角形の小さな敷地の中に、ブランコと揺れる乗り物遊具が置かれた児童公園仕立ての公園になっています。
那覇の公園では定番の拝所もあります。
街なかの小さな公園ですが、地域の方々の色々な思いを背負って頑張っている前島北公園でした。
(2016年1月訪問)
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