1231/1000 柳川城址の周りのポケットパーク(福岡県柳川市)

2016/08/01

ポケットパーク 狭小公園 石碑めぐり 福岡県 柳川市

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柳川城は江戸時代には柳川藩10万石の政庁だったのですが、掘割に囲まれた平城ということもあって明治以降は城の中心部まで都市化してしまい、どこが城だったのかわかりにくくなっています。もっとも掘割は概ねそのままの形で残っていますし、本城町、城隅町といった町名もあって、だいたいの範囲は見て取れます。
そんな柳川城址を囲む掘割に沿って、遊歩道やポケットパークがたくさん整備されているので、その幾つかを記録しておきます。

(1) 柳城児童公園
城の北側、日吉神社の境内が児童公園になっています。下の写真で参道の左側、小さな森のようになっている部分です。

名称が児童公園ということで、施設内容も滑り台、ブランコ、ジャングルジム、シーソーなど、まさに児童公園といったラインナップです。

広場の一角にはラジオ体操会に使うにしては大きすぎるステージもあって、小規模なイベント開催等も意図される施設内容になっています。

ほかにも文学碑があるところから見ても、今は少々寂れていますが、もともとはお城周辺では色々な利用の中心となっていたものと思われます。

ところで下の四角い文学碑は、柳川出身の芥川賞作家・長谷健を記念したもの。好物だった豆腐を形どったそうですが、さすがにこの形から豆腐だけを連想するのは難しいと思います。

文学碑の横手は水路が通っており、そこに面して料理屋まであります。その店先には柳川うなぎ料理組合が建立した「うなぎ供養碑」があって、料理屋でウナギを食べる前に供養をするという構造になっています。
柳川というとドジョウのイメージも強いのですが、どこかに「どじょう供養碑」もあるのでしょうか。

(2) 檀一雄の文学碑があるポケットパーク
城の西側の水路に沿って、柳川出身の北原白秋が通学時に通ったとされる「白秋道路」が遊歩道として整備されています。これの曲がり角や眺めの良い所に幾つかのポケットパークが設置されていますが、個々の名前はわかりません。
そのうちの一つ、直木賞作家・檀一雄の文学碑があるポケットパーク。水路の曲がり角の、どこからもよく見えるポイントにあります。

文学碑はこちら。
●有明潟睦五郎の哥
ムツゴロ、ムツゴロなんじ佳き人の潟の畔の、道をよぎる音ささやきたるべし、かそけく、寂しく、その果てしなき想いのきゆる音

(3) 海老名弾正の碑、藤村作顕彰碑があるポケットパーク
上で取り上げた白秋道路沿いの続きです。この付近は、かつては中堅藩士の武家屋敷が並んでいたようで、その辺り出身の文化人が多いようです。

向かって右側の碑、少々時代がかった名前の海老名弾正は、幕末の柳川藩士の家に生まれ、キリスト教と教育の道に進み、後に同志社大学の総長を務めた人物です。

●海老名弾正先生顕彰碑
『私は人物が欲しい。これは私の苦悶であります。独り私の苦悶にあらずして日本の苦悶であります。願わくば、日本を世界に指導し行く所の人物を作り出したい。(総長就任の辞より)』

海老名弾正は1856年9月18日、柳川市新外町にて誕生。伝習館から熊本洋学校に進み、L.L.ジェーンズからキリスト教の感化を受け、「熊本バンド」の一人となる。次いで京都の同志社英学校で新島襄の薫陶を受け、第一回生として卒業。以後、群馬、熊本、神戸、東京などの牧師として伝道に従事。本郷教会では吉野作造や中島重らの俊才を育成した。1920年同志社総長に就任し、「同志社アカデミズム」をもたらした。1937年5月22日東京で永眠。柳川真勝寺にも分骨された。

続いて向かって左側の碑、
一方の藤村作(ふじむら つくる)は、明治初めに柳川に生まれた国文学者で東大名誉教授という人物です。

●国文学者 藤村作先生顕彰碑
藤村作先生は明治8年5月6日、柳川に生まれた。城内小学校、中学伝習館、第五高等学校を経て東京帝国大学国文学科を卒業し、東大助教授、次いで教授となった。大正8年、文学博士、昭和9年、国語教育学会会長、国語審議会委員、東洋大学学長となった。
先生は、当時大学で取り上げられなかった近世の庶民文学や近代文学を国文学の講座に位置づけ、雑誌「国語と国文学」の創刊、「日本文学大辞典」の編纂等を通して多くの若い研究者を育てると共に、国語国文学隆盛の基礎を築いた。
昭和28年12月1日、東京の自宅で病歿。享年78歳。

(4)「 待ちぼうけの像」と「くもで網」
上の海老名弾正&藤村作の石碑の斜向かいあたりに、「待ちぼうけの像」がありました。
白秋道路と言うくらいなので、もっとほかにも北原白秋関係のモニュメントがあるのかもしれませんが、今回見つけたのはこれだけです。

これは白秋作詞の唱歌「待ちぼうけ」を取り上げたものだと思いますが、設置場所が歩道と水路の間の狭い場所で、像自体が水路側を向いているため、正面顔の写真は撮れませんでした。
しかし「ウサギが切り株にぶつかって転げるのを待つ」のに、自分が切り株の上に乗っかっていてはウサギが寄ってこないと思います。これでは皆の笑い者になるのも仕方がないと言えましょう。

その像の隣には、くもで網がありました。他の土地では「四手網(よつであみ)」と呼ぶものですが、柳川では「くもで」。
網が四角で四本の手で支えられているように見えるから「よつで」と呼ばれると考えると、柳川のものは蜘蛛のように八本の手があるのかと思いきや、四本でした。

出張の合間でなければ、もう少しゆっくり歩いてみたかった柳川城の周りのポケットパークでした。

(2016年4月訪問)

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