ちなみに「佐野」は、三重津海軍所の監督を務め、後に西南戦争の際に日本赤十字の前身となる博愛社の設立に尽力した佐野常民から取られています。この博愛社に絡む記念碑は、No.646 中央公園(尼崎市)でも登場しました。
川の堤防を挟んで陸地側が佐野常民記念館、川側が海軍所跡の史跡となっており(海軍施設ですが海ではなく川の河口付近に面しています)、事情はよくわかるのですが、かなり違った世界が繋がっていて不思議な施設です。
ただ、本ブログは公園のことを書くブログなので、海軍所跡について記録します。
こちらが川側のおおむね全景を、記念館の3階からパノラマで写したもの。全長が500メートルくらいあるため、なかなか1枚には収まりません。
それではと河川敷に下りてみますが、なにぶん「跡地」ですので、ほとんどの遺構は土の下で埋戻し保存されています。
そして河川管理上の制約があるため、立体的な復元や遺構展示、模型の設置などもままならないのでしょう、ほとんどが地上面の平面表示と解説板で示されています。
まずこちらが、海軍所の前身となった藩の船屋・舟入場があったあたり。
今も入江状の船着場になっているため、往時の姿を忍ばせてくれます。
が、干満の差が大きいことで有名な有明海に近いため、訪れた時は水がなく、ただの泥田のようになっていました。
舟入場の隣りにあるのが、調練場跡。かつては海軍寮に学ぶ生徒たちの調練、射撃練習などが行われた場所だそうですが、要は広場ですので、今も広っぱです。
調練場のすぐ隣ですが、こちらの広場は「稽古場地区」と呼ばれています。史跡としての整備時期によって、同じ施設でも呼び名が少し違うようです。
そして海軍所が「明治日本の産業革命」に果たした役割として取り上げるべきは、おそらくこの辺りの地下に埋まっているであろう、大型の洋式船を扱えるドライドッグ施設を中心とした「修羅場地区」なのですが、例によって地上ではなにが何だかわかりません。
石積みの位置とか、園路の形状などにも展示上の意味があるように思うのですが...
もちろん、あちこちに解説板が設置されているのですが、これも河川管理のうえで支障がないように、移動可能なラフな作りのものになっています。
とは言え佐賀市では、この「見えなさ」を逆手に取って「みえない世界遺産、みえつ」としてキャンペーンをしているくらいなので、どうってことはありません。
と言うことで、三重津海軍所跡の詳しい内容を知りたい方は、こちらの佐野常民記念館の展示解説をご覧ください。バーチャル・リアリティで色々わかりやすく見せてくれるバーチャルスコープも貸してもらえるから安心です。
●佐賀県による紹介ページ
(2016年4月訪問)
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