「あしびな」または「あしびなー」は沖縄の言葉で「遊び+庭」の意味なのですが、いわゆる子供の遊び場ではなく、村の神様・祖先神に捧げるための歌や踊りを行なう場所です。
そんな言葉を冠した野嵩あしびな公園は、小さい割には屋根付きのステージを持つ公園です。
公園の道向かいには、地域の方々が建てた戦前の集落地割を示す記念碑がありました。地割図は、高齢者の方の聞き取りによって作成されたそうです。沖縄の場合は、開発行為による変化だけでなく、米軍基地による接収で集落の位置や区域が大きく変わっていることが多いため、こうした図版は貴重です。
写真にすると文字が小さくてわかりにくいですが、現在地は図版の中央やや上の方、もともとの「アシビナー」の位置であるようです。
すなわち、伝統的な「あしびな」を守っていくための手法として、近代的な公園制度を使っていると言えます。
●現地の記念碑より「字野嵩集落図板建立にあたって」
去る第2次大戦で沖縄全島が焦土と化し破壊しつくされましたが、幸運にも私達のふるさと野嵩の集落は辛うじて破壊から免れ多くの有形無形の貴重な文化的遺産が残されました。
ところが昭和22年頃までは完全に残っていた字野嵩集落の地形も急速な都市化によって変化し、人々の記憶から遠のきさらに時代の変遷と共に地域の歴史と文化に対する認識もうすれつつあります。
そこで戦後50年を節目に多くの先輩方の記憶をもとに字野嵩の歴史と文化を記録し、後世に文化遺産として正しく継承すべく集落図板を建立することにしました。
尚、集落図作成にあたっては戦時中米軍によって撮影された空中写真と戦後作図された図面等をもとに字野嵩集落の昔の姿を再現するように配慮しましたが、各人の屋敷の面積や所在位置が必ずしも正確に作図されたものではないことをご理解下さい。
尚、財源はすべて字野嵩共有財産からの資金によるものです。
1999年(平成11年)6月吉日(以下、建立実行委員会役員名などが記載)
さて、改めて現在の公園。500平米ほどの小さな敷地の中に、ステージと草敷の広場、そして遊具が少々あります。施設配置を見ると、あくまで広場メインの公園だと言えます。
隣接地には保育園や地区の集会施設などもあって、古くからの集落の中心だったと思われます。
もっとも、私が訪れたのは隣の建物が工事中で、工事足場、ステージ屋根の骨組み、古びたジャングルジムと、鉄パイプばかりが目立つタイミングでした。
そして園名板よりも目立つ住居表示板は勘弁して欲しかった野嵩あしびな公園でした。
(2016年2月訪問)
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