ちなみに、米軍・普天間飛行場の返還後のまちづくりに関連して、沖縄県が「(仮称)普天間公園」の検討を進めていますが、それとは関係ありません。そしてこちらは平仮名で「ふてんま」と書くのが正式な公園名です。
周辺は戦後の早い時期に、都市計画法によらない私的な区画整理が始まった「普天間新町」と呼ばれる地区ですが、その際に地区の拝所があった丘陵を残し、そこが平成に入ってから公園となったようです。
と言ったようなことが読み取れる記念碑が、公園入口脇にある地区の拝所に建っていました。
記念碑が2つありますが、ひとつは普天間新町の区画整理について、もうひとつは対象地区の広い普天間都市計画について書かれたものです。
また記念碑の隣には、戦前の地区かと思われる「旧字普天間地図」が彫られた大きな石碑(石板)がありました。
面白いのでもっとよく見たかったのですが、繊細な線で細かく彫られているために傷みやすいのか、触ることはおろか、近くで見ることもできないような柵の中に隠してあるのが少し残念でした。
柵の隙間から撮った写真をトリミング&拡大するとなんとか読めます。
が、この公園のある場所から少しずれたところを写していました。なんてこったい。
そうした地区の歴史を伝える物件の横を通りすぎて階段を登っていくと、丘の上にある公園に出ます。
公園敷地はおおむね三段に分かれており、細長い広場、そこと斜面滑り台で繋がる遊具広場、それと同じ高さにあるゲートボールのできる芝生広場、そして一番上に展望台のある高台、という構造になっています。
下から順に、まず細長い広場。
片側は擁壁、もう片側は住宅が近いために高い柵があって、空間的にはあまり余裕がありませんが、通路的に使えるスペース、東屋、トイレ、揺れる動物などが配置されています。
住宅側に立つ腰壁には「みらいのぎのわん」と題された壁画が描かれています。
これが腰壁の端から端まで30メートル以上におよぶ大作で、あまりに大きすぎるせいか、だんだんと少し変なものも紛れてきます。未来の「きのこの学校」とは、これいかに。
トイレはパイナップルだと思うのですが、後ろにそびえる排気塔はチューリップでしょうか?
しかしパイナップルとチューリップという取り合わせではよくわからないので、パイナップルの花なのかも知れません。
一つ上の段と繋がるのは、定番の斜面地コンクリート滑り台。
平場が狭いため、少し窮屈なところに無理やり押し込んでいるような配置です。
その滑り台の横を登っていくと、小ぶりな芝生広場。
あらかじめロープで枠が取られており、ゲートボール場として整備されたものと思われます。
芝生広場の横には、木製複合遊具があります。
湿気の多い沖縄では木製は傷みやすく、設置から20年くらいでどんどん撤去されているのですが、ここはまだ現役でした。
ちなみに、この公園では手すり・柵、ベンチ、テーブルから、擁壁に使うコンクリート板まで擬木風の表面処理がされており、木に対する並々ならぬ熱意が感じられます。理由はよくわかりませんが。
そこから登った丘の頂上に、さらに2階建て相当の展望台があります。
これも手すりや柱は擬木風ですね。
展望台から公園内を見たところ。こんな風になっていました。
そして公園から北方を見たところ。
市街地の向こう、1キロほど離れたところにあるキャンプ・フォスターが見えました。在沖アメリカ海兵隊の司令部があるところです。
肉眼ではよく見えるのですが、写真だとわかりにくいので、フォスター名物の巨大な国旗(重なって見えますが、日・米2枚の旗が風になびいています)をズームアップ。
このように、いい土地は米軍に接収されて、残ったへた地や、何十年か後にやっと返還された土地に家が建てられるようにするのが区画整理事業なのですが、この地区はとくに難渋したようで、区画整理記念碑の文言にもそれが滲み出ていました。
■普天間東原一部地域(新町)の区画整理事業記念碑
東原の一部地域が都市計画法の立法以前に先達者によって区画整理事業が推進され、全地主の合意形成のないまま建築が先行し、協会確認の申し入れがあいついだ。
本事業の資料収集に努めたが残存せず法の指定のない仮換地の状態で頓挫して居り、放置すると事態が紛糾し地主間の紛争に発展するやも知れず、区長の責任において事業再開に踏み切った。
幸にして開放地都市計画委員の殆どが同地域の地主であり、古波蔵信雄氏を委員長として、区画整理事業に準じて整理することにした。
1995年初旬、宮里測量事務所により測量が開始され、1956年2月仮換地図を作成し全地主と借地人の同意を得て作業は終わった。
1970年9月琉球政府法務局臨時土地調査庁の配慮で再調査が実現し、1971年7月地積確定の諸手続が完了し解決した。
任意の区画整理事業は法令の保護が受けられず地主は資産運用面でも不利益を強いられ、15年の長期に亘り難渋したが地主及び借地人がよき隣人として理解し合い相互に信頼関係を深めたことが功を奏し、法的決定の運びとなり決着した。
事業の成果を記念し同地域の益々の発展を願ってこの碑を建立する。
2003年8月1日(以下署名)
■普天間都市計画事業記念碑
戦前の字普天間は人口900余人、面積28万7千坪の地域をようし大部分の家庭が農業を営んでいた。
沖縄は「鉄の暴風」と厳しく形容される太平洋戦争ですべてが壊滅し、字普天間も東原の一部以外の地域は軍用地に接収され、琉球列島はアメリカ民政府の管轄になった。
区民は他字民所有の狭小な割当土地に応急的な規格住宅(6坪余)の生活を余儀なくされ、衛生面や防災上も憂慮される事態となり打開策が急務となった。
1953年1月区長を中心に普天間土地委員会を結成、総力を挙げた解放運動の結果、8月1日普天間前原、前筋原、石川原の返還が実現した。
9月第1回の開放地地主総会で普天間都市計画委員会を設立、アメリカ軍の琉球統治が緒についたばかりで行政当局も対応できない区画整理事業を末端の行政区が地主の権利擁護と秩序ある開発を目指し、未来を先取りして事業を着手した。
しかしながら法令が整備され合法的手段による推進を意図したが整合性が見いだせず不調に終り、法令に裏打ちされた保護が受けられず幾多の矛盾を抱えながら、委員会立案の区画整理計画に基づいて工事は後続していた。
度重なる具申により、1970年琉球政府法務局臨時土地調査庁の配慮で再調査が実現、1971年7月地積確定の諸手続が完了し解決した。
22年の長期でしかも全国でも類例がないといわれる大事業は地主相互の信頼関係の持続と、全役員の献身的奉仕により困難を克服して建設された手造りの街は、古きよき時代の「結い」慣習の象徴である。
住民待望の街並みの出現で都市化に拍車がかかり本市が村から市へ昇格の実現に寄与した。
区画整理地区の解放50周年に当り役員、地主、その他協力者の熱意と誠意を顕彰し普天間郷友会の繁栄祈願と都市計画事業の竣工を記念して、この碑を建立する。
2002年8月○日 普天間都市計画委員会
施工面積と関係地主数
第1次計画 24.216坪 地主数41名
第2次計画 20.407坪 地主数70名
総面積 44.623坪 計111名
(2015年1月訪問)
トイレのチューリップのような花は10年ほど前はパイナップルの柄でした♪
返信削除匿名 さま
削除こんにちは、ブログ作者です。貴重な情報ありがとうございます。
なるほどなるほど。花と言うわけでもなく、小さなパイナップルだったのですね!
じつは、この夏に石垣島へ行った時に同型のトイレを見かけて、ふてんま公園のものはペンキ塗りも含めて何度か改修されているのだろうと想像していたのですが、それを裏付ける情報をいただいて感謝です。
> http://nippon1000parks.blogspot.jp/2015/11/10851000.html
今後とも本ブログをよろしくお願いいたします。<(_ _)>