木津川・宇治川・桂川が合流して淀川と名前を変える三川合流部の中州にあり、城も城下町もすべてが中洲を干拓した土地にあるという特徴をもっています。また川を堀とし、京と大坂を結ぶ京街道が城下町を通過するため、街道沿いの要衝でもありました。
江戸時代の城の様子は、現地の解説板の通り。
ただ、そういう良い場所にある城ほど後世の開発の影響を受けやすいもので、河川改修で川とは切り離され、残った堀は埋め立てられて国道や京阪電鉄が本丸のすぐ横をかすめて通るなど、周辺の様相は大きく変わりました。
さらに、それら工事のために石垣が崩されて転用されており、現在は本丸と内堀の一部だけが淀城跡公園ならびに神社として保存され、なんとか往事を思い起こすことができます。
かつての淀城には「淀の水車」と呼ばれる大きな水車があり、城内の庭と花畑に水を汲み上げていたそうですが、それをイメージした小庭(だったと思しきもの)。
手作りの熱意は有難いものですが、本物の石垣の横に管理の悪いオモチャみたいなものを並べられては、贔屓の引き倒しみたいなで困ってしまいます。
また奥に見える石垣も隙間から灌木が生えてきていたり、一部には石が浮いてきているところも見られます。
本丸の中はゲートボール場や遊具広場として使われています。
しかし訪れた時は除草か何かの管理作業中でロープが張られており、遊具広場や、その奥にある天守台には近づくことができませんでした。
イチョウの絨毯は美しいのですが、これからの時代の城跡公園にはブランコやシーソーは不要でしょう。
誰がこうしたのか、東屋は集めた枯葉置き場として使われており、座ることができませんでした。どうも管理に携わる方の判断が、色々と悪い気がしてなりません。
設置の経緯がよくわからない石碑がたくさんあるのも、全国の城址公園の特徴です。
これは明治天皇の明治天皇御駐蹕址の碑。京都市の資料によれば1868年(慶応4年)の親征を記念するものだということで、まだ船で京都・大坂を行き来していた頃は淀で船を降りて一服していたことがわかります。
また、この碑の建立が1928年ということなので、公園になる以前もなんらかの公共的な土地利用がされていたことが想像できます。
京都市でも現状があまり良くないということは気にかけているようで、2001年(平成13年)に『淀城跡公園再整備基本構想』を策定しています。その後はまだ目につく動きは無いようですが、京阪電鉄の高架化も終了したため、機が熟せば急に事業が動き出すかも知れないので要注目です。
(2014年12月訪問)
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