その名の由来は、すぐ隣に史跡「耳塚」があることに因みます。耳塚は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に武将たちが戦功の証として持ち帰った朝鮮人たちの耳や鼻が葬られている塚ですが、公園そのものは耳塚とはとくに関連しない、児童公園仕立てになっています。
耳塚そのものはこんな感じで、国史跡に指定されています。周囲には玉垣が巡らされており、また普段は門が閉まっているため、慰霊の場として静謐さが保たれています。
京都市のHPによれば、頂上の五輪塔は江戸時代初めのもの、石柵などの周辺整備は1898年(明治31年)のものだそうです。
一方の耳塚公園は、正面通りに面した細長い形状で、通りとの間のフェンスが低いため非常に開けた感じのする公園です。
その細長い中に、ブランコ、滑り台、砂場、シーソー、揺れる動物など、一通りの遊具とパーゴラなどがあります。
下1枚目の写真の奥の方には耳塚、2枚目の写真の奥の方には豊国神社の鳥居が写り込んでいますので、なんとなくの位置関係も掴めるでしょうか。
パーゴラはNo.776の御霊公園(南区)で見かけたものと同タイプです。
『日本公園百年史-附表』(日本公園緑地協会)によれば、耳塚公園は1938年(昭和13年)開園、御霊公園(1939年)と同時期のようですので、上部の金属部分はともかく、下部のコンクリート部分はどちらも当時からのものが残っているのではないかと思われます。
公園の西端には「明治天皇御小休所 下京第廿七区小学校阯」の標柱と、その横には由来を記した石碑。いずれも1941年(昭和16年)に建てられたもので、本ブログにもたびたび登場する明治天皇の聖蹟を示すものです。
では、この公園が聖蹟にあたるのかと思って碑文を読むと、「大仏前の御小休所は即ち下京第27区小学校にして、耳塚の北辺にあり。今の貞教国民学校の..」と書かれていますが、現在地はどう見ても耳塚の東です。
京都市が発行している東山区の80周年記念誌の貞教小学校の項にも、「明治2年、耳塚の北側に下京第二十九番組小学校として開校。5年、下京第二十七区小学校と改称、正面校とも称する。11年、現在地に移転」と書かれています
おそらく道路拡幅かなにかで碑の位置が動いたのではないかと思われます。
それにしても、ここで気になるのは公園名。
史跡地を含めた歴史公園であればこの名前でも良かったと思いますが、この公園はそうではありません。
耳塚の下には実際に朝鮮の人たちの耳や鼻が埋められたとされることを考えれば、隣にあって子供の遊び場がメインの公園の名前としては、いささか扇情的なもののように思います。
開園当時、祀られてから300年も経つと「耳塚」の名も一種の地名のような扱いになっていたのかも知れませんが、もう少し違うの名はなかったものでしょうか。貞教公園ではダメだっだのかなぁ...
(2014年12月訪問)
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