現地の解説板によれば、遺跡そのものは御殿・二之宮(ごてん・にのみや)遺跡といって弥生時代から江戸時代まで色々と使われてきた場所で、とくに奈良時代には遠江国の国府が置かれたと推定されている遺跡です。
なかでも、この公園の位置で表現されているのは古代の大型建物(おそらくは国府の関係施設)の跡だそうです。
しかし遺跡名になっている「御殿」という地名の由来は、徳川家が東海道を往復する際の宿泊所となった「中泉御殿」であるようです。時代が前後して、ちょっとややこしいですね。
園名板の上に座っているのは徳川家康だし。
公園内に設置された解説板を見ると、発掘調査がおこなわれた区域の1/6ほどが公園になっているようです。
■現地の解説板より 御殿遺跡公園~御殿・二之宮遺跡のあらまし
御殿・二之宮遺跡は、御殿から二之宮にかけて広がる、弥生時代から中世・近世にかけて営まれた遺跡です。特に奈良時代には、文字の書かれた木札や土器(木簡・墨書土器)が出土していることから、この地に遠江の国の役所が置かれていたと推定されていました。
平成4、5年度に発掘調査した結果、この場所から直交するように配置された古代の大規模な建物跡が見つかりました。配置や規模から役所の建物の一部と推定されます。国分尼寺や国分僧寺の中心線を真南に延長した場所にあたることから、古代の都市計画の基づいて建物が造られたと考えられます。
ここに擬木で示したものは、建物の柱の部分になります。道路部分のものを含めて、大型の建物がL字型に配置されています。
また、この付近には江戸時代に中泉陣屋や、徳川家康が鷹狩りなどの際に利用した中泉御殿もありました。発掘調査で、御殿の濠が見つかっています。
磐田市教育委員会文化財課
園内は、大きくは歩道と一体的に石張り舗装がされたスペースと、遺跡の柱跡を表現した芝生のスペースとに分かれています。
柱跡は、コンクリートで位置と大きさを示しています。
両スペースの間には、駿府城跡(駿府公園)から分けられた、徳川家康お手植えの蜜柑が植えられています。
やはり静岡の人は、家康好きですね。
さらに、御殿とは別に幕府の代官陣屋(中泉陣屋)も置かれており、それに関連するという道標も展示されています。
■「御陣屋跡 軍兵稲荷道」道標
この一帯には、江戸時代の初めに幕府の代官陣屋が置かれました。
中泉陣屋は通称「中泉代官所」と呼ばれ、幕府の直轄領(幕府領)を支配し、その範囲は遠江かを中心に、西は三河から北は信濃までおよんでいました。
文久2年(1862)に書かれた陣屋絵図の中に「稲荷宮」と「稲荷門」という名称が見られます。この道標は、稲荷宮の参道に立てられました。なぜ「軍兵」と名づけられているのかははっきりしません。
中泉陣屋の大きさは、絵図によると西は東城道に面し、周囲は土塁や水路によって仕切られ、総延長約571mありました。
敷地の大半には書院や長屋などの建物が並び、南半には畑や池とともに稲荷宮が置かれていました。
また、中泉陣屋の表門は、現在新島の伊藤家に移築されています。
この道標は、中泉陣屋の所在を示す、貴重な歴史遺産です。
平成19年3月 磐田市教育委員会文化財課
さらに「防人の歌」の歌碑もあります。
「防人の歌」は万葉集に収められた東国出身の防人たちの詠んだ歌の総称ですが、全部で100首近くあるので、あちこちに関連の碑が建てられています。
ここの碑は、実際にこの付近出身の防人が詠んだ歌が紹介されています。
ところで、徳川家康の休憩所が「御殿」だということなので、富士山の麓にある「御殿場」の由来も調べてみました。
すると、御殿場市のサイトに書かれていました!
「御殿場」の地名も、家康が使うための休憩所が由来になっているそうです。
(2014年9月訪問)
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