敷地のうちの広い範囲が野球場に占められており、残った外周部に遊具広場や園路、高木植栽などが入る形になっています。
野球場はライト側がレフト側よりも10メートル短い変形のフィールドになっていますが、フェンウェイパークなんかに比べれば整ったものです。
また野球場全体を取り囲むフェンスが非常に立派で、ちょっとやそっとではボールが飛び出していかないようになっています。
遊具広場は、ブランコ、滑り台メインの複合遊具、砂場、揺れる動物など、だいたい今どきの公園の標準的なものが並びます。
ちょっと面白いのは、こちらの幼児向けの滑り台と、それを見守るベンチ。あえて公園の中心には背を向けて、滑り台で遊ぶ子を見守る位置にベンチを置いたのは憎い心づかいです。
西側の園路は、ウォーキングの際の足腰に優しい木チップが敷き詰められ、園路沿いには健康器具が並ぶなど、成人の健康運動での利用を意識したものになっています。
置かれているのは、中国メーカーが作った輸入ものの健康器具です。
この黄色い円盤を両手で回す器具は、ほかの公園でも見かけるのですが、とくに名前は知りませんでした。ところが学田公園には使い方を示した看板があって、ついに名前を知ることができました。
その名も「太極拳 雲手」。カッコいー!
今まで突っ立ったまま回していたけれど、本当は膝を少し曲げてやると、太極拳の動きになるのですね。中国製ならではの発想。
もっとも、そんなに簡単に身につくものでもないとは思いますが。
しかも隣にある屈伸運動の器具は、その名も「腰腿鍛錬器(ヨウタイタンレンキ)!」
漢字にしただけでカッコよく感じてしまうのは、民明書房の法則でしょうか
ところで、練馬区役所のサイトによれば、「学田」の名のいわれは、明治の頃、当時の中新井村が村営の豊玉小学校の費用に充てるため、荒れた官有沼地を開墾して農地とし、そこから収益を得ていたので、この田を「学田(まなびた)」と呼んでいたものが、後に「がくでん」に変わったものだということです。
そこで、(独法)農業環境技術研究所が歴史的農業環境閲覧システムとして公開している迅速測図(明治13~19年にかけてつくられた地図)で見てみると、ちょうど今の公園付近は西新井川ほかの川が集まってくる大きな沼地になっています。
歴史的農業環境閲覧システムよりスクリーンショット |
豊玉小学校の創立は1876年(明治9年)なのですが、迅速測図の時代でも「学田」は姿を現していないので、実際に水田になったのは明治半ばになってからのことなのかも知れません。
また、公園の開園面積は約1.09ヘクタール。田んぼ風に言えば11反ありますので、今日の感覚で言えば年間110万円からの収入があがってきます。しかし、そこから人件費や肥料代などを引くことを思えば、公園部分だけでは学校運営には物足りないように思うので、実際の「学田」の範囲はもっと広かったのではないでしょうか。
でも、それだけの田圃を耕す人手はどうするんだ、など気にし出すときりがありません。
もっとも、明治初めの生産技術、米価・物価の状況なんか知らずに適当なことを書いているので、いつか詳しい人に教えてもらいたいものです。
■練馬区HP 「練馬の地名 今むかし(豊玉)」
(2014年8月訪問)
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