天満組は江戸時代の大坂市中を南・北・天満に三分し行政を取り仕切った大坂三郷の一つで、その事務所・役所が惣会所です。本ブログでも以前に南組の会所跡に隣接するNo.164 農人町公園を訪ねました。
と言うことで、滝川公園の出入口を入るとすぐに件の石碑が迎えてくれるのですが、説明をよく読むと最後に「北西隣の一角がその跡」と書かれており、いきなり出鼻をくじかれます。
■石碑「天満組惣会所跡」
大阪三郷の一つ天満組の惣会所は町の代表 惣年寄の事務所であった。惣年寄は世襲で町の自治行政面をつかさどっていた。北西隣の一角がその跡。
ちなみに、こちらがその「北西隣の一角」。現在は一般の会社の建物が建っていますが、小さいながらも史跡の解説板も設置されています。見れば比較的新しい建物のようなので、きっと公園内の石碑を設置した頃には、ここに解説板を置くだけの余裕がなかったために公園に建てられて、後にこちらの建物の建て替え時にスペースができたのでしょうか。
では滝川公園の土地が惣会所でなかったとすれば何であったかというと、浄土真宗の興正寺(天満御坊)というお寺があったそうです。
詳しいことをきちんと調べてはいませんが、京都には真宗興正派の本山・興正寺が今もありますので、これの大坂支部として創建されたものだったのでしょう。そのあたりのことも、公園内の石碑に刻まれています。
■石碑「史跡 天満興正寺御坊址」裏面の碑文より
文永元年(1264)真宗興正寺第三世源海上人摂津御化導に当り当地を天満御坊として法灯を創む
天保8年(1839)大塩平八郎の乱のため焼尽す
安政3年(1856)第27世本寂上人これを再建し興門の法灯摂河泉に光揮を放つ
昭和20年(1945)大戦の戦禍に烏有に帰し、而もその後地区整理の改正に伴い、第29世現門主華園真淳寺基を赤川の地に移す
昭和45年 輪番 川合静雲 撰
ただ、この石碑に書かれている内容と、大阪市のHPで紹介されている情報には大きな違いがあり、石碑には「文永元年(1264)に天満御坊として法灯を営む」、大阪市HPには「はじめ天台宗に属したが、真宗興正寺として天正13年(1585)云々」と書かれています。
両方を読み比べても、1264年創建の天台宗寺院が1585年に真宗に変わったのか、真宗→天台宗→真宗と移ろったのかはよく分かりませんが、一般的には碑文の方が大袈裟なことを言いがちなので、なんとなく前者のような気がします。
もし違っていたら、源海上人、川合静雲氏、真宗興正派の関係者の方々にお詫びします。
●大阪市 歴史の散歩道HPより「天満天満興正寺(こうしょうじ)跡」
さて、ここまでは前振り。
じつは、この公園内で一番よく分からないものは、下写真の石積みなのです。
この公園は北側2/3ほどが盛土されているのですが、その盛土部分の壁面にアーチ状の石積みがあります。アーチの雰囲気は水道・排水路などのようで、その穴を後から塞いだもののように見えます(が、ただの装飾のようにも見えます)。
そもそも、公園の一部だけが盛土になっているので、水道などの埋設物にしては位置・接続などが不自然で、本当によくわかりません。
大阪市がまちづくり関連で出している資料には「興正寺跡地である滝川公園には、石垣や石段が当時のまま残っており...」と書かれているのですが、これがそうなのでしょうか。というか当時っていつのこと?
●天満地区HOPEゾーン関連資料
現在は、この段差は滑り台を長くするための適地として使われており、パーゴラを挟んで2基お揃いの滑り台が伸びています。
その先が遊具広場。
ニレなどの木陰に、小さめの複合遊具、ブランコ、太鼓橋のラダー遊具、砂場などがあります。
ブランコ、滑り台を幼児向けと児童向けの2種類ずつ置くのは、大阪市街地ではよくあるタイプです。
パーゴラのある上段は、桜が多く植えられた広場になっています。
公園外周の通路とは植栽枡でしっかりと区切られているので、花見の宴会の時も安心です。
さらに進めば、よく育ったフェニックスが目立つ広場。
大阪市内では、このようにフェニックスをサークルで囲いシンボル的に使った公園がよくあるのですが、いつかの時期に流行ったのでしょうか?
と言うことで、いくつもの謎を残したままの滝川公園でした。
(2014年4月訪問)
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