開園面積は約12ヘクタールあって決して狭い公園ではないのですが、これだけの運動施設と駐車場などがあるため、非常に詰め込まれた感(良く言えばコンパクトにまとまっている感)のある公園となっています。
例えば陸上競技場の正面スタンド出入口(右側)と競輪場のスタンド(左側)はこのような位置関係。写真奥の方向からは競技場の出入口に向かうのは狭い通路しかない(写真目線方向でのアプローチ99%を占める)ので、競技場でJリーグの試合があるときなどは人数を捌くのが大変そうです。
上の写真で見えた競輪場のスタンド下は、ラバーが貼られた陸上用の走路になっています。ウォームアップなどに必要な場所ですが、30メートルほど走ると窓も何もない通路になってしまいます。
陸上競技場の方も、スタンドが周辺道路ギリギリのところまで来ていて、どこが公園敷地でどこが歩道なのかわからない状態です。
機材などの搬入ゲートは一般道に直に面しています。合理的とも言えますが。
野球場は軟式用ということになっており、外野スタンドはありません。まぁこれは普通の球場です。
いずれも競技施設としてのスペース・水準はきちんと確保されているのですが、観客席が窮屈さを演出しています。
スポーツは競技施設の中だけでおこなうものではないので、これだけ詰め込まれていると競技会の始まる前にランニングをするコース、草野球の試合前に体操をする場所、サッカーの試合が終わった後にサポーターが集まって騒ぐスペースなどが取れていないのが心配です。
とは言え、市街地に一定水準の競技施設を確保するのは大変です。
きっと、じきにスタンド部の耐震改修が必要になった時、競輪が下り坂で赤字になってきた時に施設をどうしていくのかという議論が出てくることでしょう。
なお、この辺りは南北朝時代の古戦場であり、その記念碑が建てられています。
碑は戦前のものであり、南朝方が勝利した合戦ということもあって、けっこう巨大なものです。
碑文は熊本県出身の徳富蘇峰。
■天授勤王戦跡碑~現地の解説板より「託麻原の戦」
阿蘇外輪山山麓から西に向かってゆるやかに広がる熊本市の東部台地の一部が託麻原(転機注釈:たくまばる)と呼ばれる。
南北朝時代の天授4年(1378)9月29日、征西将軍宮良成親王を戴く菊池武朝の南朝方と九州探題今川了俊の大軍とが、この原野で激しい合戦をくりひろげた。
劣勢の南朝方は良成親王、武朝ともに傷を負うというほどの苦戦を強いられたが、運を天にまかせた奮戦によって奇跡的に凱歌をあげることができた。
この戦は南朝方にとって内戦期最後の勝利であったといわれる。
熊本市
(2013年12月訪問)
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