前方部がいつごろ破壊されたのかはよく分かりませんが、現地の解説板によれば「大坂の陣で徳川方の本陣が置かれたため著しく墳形が破壊され」と書かれています。ちなみに大坂の陣以前は「岡山」と呼ばれていたものが、徳川方の戦勝祝いで「御勝山」に改められたという逸話もあります。
また、幕末に描かれた『浪花百景 御勝山』の解説では、いちおう尊い方の墳墓であるということで名勝として知られていたことが紹介されています。
現在は、かつての墳丘の真ん中を横切るように「勝山通り」という道路があり、この道路の北側が本項で紹介する御勝山公園、南側が御勝山南公園という別々の公園になっています。
生野区役所のHPによれば、1890年(明治23年)に現在の両公園を含めた広い範囲に大阪府農学校が設置されたのですが、前方部はその際に開削されたと書かれています。
確かに、日文研所蔵地図データベースで1925年(大正14年)発行の『大阪市街大地圖(日下伊兵衛;著作印刷兼発行者)』を見ると、勝山通りの計画線の北側に丘陵地の標記がありますが南にはありませんので、少なくともこの時点では前方部はすっかり破壊されていたようです。
まぁ大坂の陣の頃から徐々に壊されていき、明治・大正の開発でトドメを刺されたというくらいに考えておきましょう。
さて、例によって前置きが長くなりましたが、現在の御勝山公園。
墳丘部分も公園区域に含まれていますが、フェンスに囲まれていて中に入ることはできません。
ですので、実質的な公園は周濠部分(の一部)だけの小さなものです。
フェンス足元の石積みや広場部分の縁石などが意味ありげな曲線を描いており、発掘調査などで確認された墳丘裾部、周濠の端部・堤部などの位置を表現しているようにも見えるのですが、現地ではとくに説明書きなどは見つけられませんでした。
広場の一角にある緩傾斜の石張りも、古墳の造出し、マウンドなどを表現しているようにも見えるのですが、現地にある復元図にはそれらは描かれていません。やはり私の考えすぎなのでしょう。
●現地の解説板より「御勝山古墳(大阪府史跡)」
上町台地の東縁部の河内平野を望む低い丘陵上に立地する御勝山古墳は古墳時代中期の5世紀前半に造られた。
慶長19~20年(1614年~15年)の大阪の陣で徳川方の本陣が置かれたため、著しく墳形が破壊され、いまは後円部が残っているだけである。
昭和48年(1973年)の発掘調査で埴輪や葺石が発見された。そして全長120m、濠を含めると約150mの中規模の前方後円墳であると推定されるに至った。
昭和62年3月 大阪府
墳丘の西側は複合遊具や砂場のある児童公園仕立て、東側は小さなシェルターのあるポケットパーク仕立てになっています。
遊具広場には、今ひとつ遊び方のわからない遊具もありました。
幼児用のハシゴ遊具?
幼児向け「初めての滑り台」?(ピンボケにて失礼)
●生野区役所のサイトより「御勝山古墳」
(2013年6月訪問)
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