471/1000 松山公園(沖縄県那覇市)

2013/09/25

おもしろトイレ 沖縄県 身近な公園 那覇市

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松山公園は那覇市街地の西部、那覇商業高校の隣にある、那覇市を代表する大きな公園です。

公園内には松山小学校(松山尋常小学校、松山国民学校)の跡の記念碑、県立第二高等女学校跡の記念碑がありますので、もともとは現在の商業高校と公園の敷地にまたがって小学校と高等女学校があり、沖縄戦で焼き尽くされた後に改めて商業高校と公園とが配置されたのではないかと思います。
きちんと調べないとよく分かりませんが。

さて現在の松山公園ですが、制度上はけっこう大きな公園なのですが、道路などに分断されて3つの別々の公園のようになっています(間をつなぐブロックが現在整備中なので、完成すればまた違った感じになると思いますが)。
1つ目は、芝生広場と樹林地を中心とする、知っている人なら誰もが松山公園だと思い浮かべるブロック。

広々とした芝生広場の外周に遊歩道が巡らされており、ジョギングやウォーキングに使いやすくなっています。

広場から少し離れて樹林地の下に入ると、子供向けの遊具広場、大人向けの健康遊具などが並びます。

こちらのブロックには、冒頭で述べた松山小学校跡の記念碑のほか、明治期に活躍した空手家の東恩納寛量(ひがしおんな・かんりょう)と、その弟子で剛柔流空手の開祖である宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん)の顕彰碑があります。碑文によれば、1987年に宮城長順の生誕100年を記念して建立されたものだそうです。

ここに限らず、沖縄では公園内に空手家の記念碑・顕彰碑が建てられていることがあります。
空手発祥の地ですので当たり前といえばそうなのですが、単に個人的技量や研鑽、子弟教育、流派発展への賞賛ではなく、沖縄において空手家が社会的・公共的な地位を認められていることの現れのようにも思います。もともと空手は琉球王国の士族のものだったので、明治になっても空手指導者たちは元・士族であり、地域社会では「名士」のようなポジションにあったのかも知れません。
もうじき沖縄県立の空手道会館が建てられるそうなので、そうした「近代沖縄社会における空手家の存在・働き」についても教えてもらえれば嬉しいところです。

またこのブロックは西側が公園の正面口として整備されており、大きなガジュマルと噴水、県立第二高等女学校跡の記念碑などがあります。

ここの出入口横にあるトイレが、那覇出身の彫刻家・能勢孝二郎さんが手掛けたコンクリートブロックぶった切りデザインになっています。能勢さんは、沖縄の建築で多用されるコンクリートブロックを巧みに切断し削り上げることで、アートに仕上げる作風で著名な方です。

さて、次のブロックは中国庭園・福州園です。先ほどの噴水などがある場所から、道を渡ったところにあります。ちなみに道を渡ると住居表示では久米になります。
琉球王国の時代、このあたりには中国出身者がまとまって住んでいた縁などがあり、那覇市と福州市が友好都市となっています。これの10周年記念事業として、福州市の職人と材料を使い、1992年に開園した回遊式の庭園です。

沖縄観光では那覇市内って意外に行くところが少なくて、首里城、国際通り、その次はどこ?となってしまうのですが(異論もあろうと思いますが)、ここは入場無料のうえバスターミナルからも近いので、けっこう穴場だといえます。
(2016年9月追記:2016年5月から入園は有料になりました)

庭園そのものも池や滝、植栽などと回廊、塔、東屋などが上手に組み合わせて配置されていて美しく、のんびり散策するには適当な広さで楽しめます。

その福州園の北側に隣接して、第3のブロックがあります。
ここは2013年に移転新築された久米至聖廟(孔子廟)と、その周りに芝生敷きの広場と遊具広場があります。

外周部にはラバー敷の園路も通っています。

久米至聖廟は、元々このあたり(久米村)にあった廟なのですが、明治以降に紆余曲折があり、沖縄戦やその後の米軍による公共工事でも場所を追われていたものが、松山公園整備の一環として久米に戻ってきたというものです。

私が訪れた2013年2月には工事の最終段階でしたが、3月には竣工しています。
竣工後はまだ見ていないのですが、隣にある福州園とあわせて、異国情緒を漂わせる観光スポットになることが期待されます。


●久米至聖廟については> 一般社団法人 久米崇聖会

(2013年2月訪問)

【2016年9月追記】
久しぶりに通りがかったら、上の記事では工事中だった至聖廟が完成したり、新たな公園施設が増えたりしていたので、少し書き加えておきます。

まず、記事中で1つ目と呼んでいる東端のブロックに、那覇市の歴史解説板が設置されていました。私がもう少し詳しく知りたかった公園になる前、戦前の土地利用について解説が加えられており、非常に参考になりました。
さいきん那覇市が設置を進めているこのタイプの史跡・旧跡案内の解説板は、文章がすっきりと整理されて読みやすい上に、私好みの「土地の来歴」に関する記載が多いので助かっています。
 
●現地の解説板より「松尾山跡(マーチューヤマアト)」
浮島と呼ばれた那覇の中核をなした丘陵跡。久米村(クニンダ)と若狭町村の間にあったことから「久米村松尾」「若狭町松尾」とも呼ばれた。松が生い茂る山林は、総じて松尾山(マーチューヤマ)と呼ばれ、かつては、松尾と呼ばれる多くの場所があった。
琉球王国時代、松尾山は久米村の所有地であったとされるが、1899年(明治32)から実施された土地整理事業(土地・租税の制度改革:~ 1903年)により、県有地となった。その前後から松尾山の開発が始まり、1945年(昭和20)の沖縄戦以前は、西側から中央部にかけて、那覇尋常高等小学校(1888年開校)、那覇地方裁判所(1893年移転開所)、知事官舎(1916年開設)、沖縄県立第二高等女学校(1923年移転開校)、松山尋常小学校(1902年開校)があり、小学校の南側に沖縄県立沖縄病院(1901年移転開院)が置かれた。中央部から北側にかけては、裁判所官舎、連隊区司令部及び官舎(1910年設置)等と、公的施設が集中した。
一方、東側の「東郷松尾(トーゴーマーチュー)」「仲地小の丘(ナカチグヮーヌオカ)」等と呼ばれた丘陵には、念仏者の屋敷や長寿宮(ちょうじゅのみや)があり、一帯は、戦前まで松尾山の面影を残していたという。
1944年(昭和19)の10・10空襲や、その後の地上戦により、松尾山一帯の施設は焼失した。終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校した。その他の場所は、米国マニング社管理の外人住宅地となっていたが、1977年(昭和52)からは公園整備事業が開始され、現在、松山公園・福州園が整備されている。
なお、1603年に来琉して、浄土宗を伝えた袋中上人(たいちゅうしょうにん)の事績を記した「袋中上人行化碑(ぎょうげひ)(1924年建立)」が、上人が住持した桂林寺跡とされる場所に残されている。

そして、工事中だった久米至聖廟が完成し、お参りできるようになっていました。まぁ「お参り」と言ってしまうと政教分離に引っかかるかも知れないので「見学」と言う方が良いかもしれません。

赤い建物、白漆喰の屋根、緑の芝生、青い空と非常に色鮮やかで美しい廟になっています。

その至聖廟と福州園の間に、公園内に設置される文化交流施設という名目で、1階が展示・休憩室、2階がレストランになっている「クニンダテラス」が開業していました。ちなみにクニンダは付近の地名「久米」のことです。

地上部は開放的な広場になっており、暑い日には地面からミストが出るそうです。

広場のところどころには、琉球の偉人たちの歌?がしるされたカルタがありました。
訪れたのが早朝だったため中には入れなかったのですが、建物1階にある歴史展示と連動したクイズのヒントになっているようです。

振り返って建物を見るとこんな感じで、2階(屋上)が緑化されて屋上庭園になっています。

これも早朝だったのでお店は開いていませんでしたが、庭園部分は散策することができました。

那覇市を代表する公園の一つとして、観光面での機能強化が図られた松山公園でした。

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