明治期の開園当初のデザインには、明治から大正にかけて活躍した著名な公園設計者・長岡安平が携わったとのことで、国史跡としての保存管理計画の策定にあたって当時の公園の設計概要や改変箇所などが明らかにされています。
城跡ではあるのですが、明治になってから城内に県庁ができたり、大きな神社が遷座したり、戦後の引揚者が神社参道に市場を作ったり、都市計画道路が城内を貫いたりと色々あって今の姿になっています。
いわゆる公園っぽい雰囲気を持っているのは、かつての堀を埋めて作った池(鶴池、亀池)、御台所跡の広場などです。
丘の上の本丸、二の丸などは城跡としての色が強くなります。
道路沿いから石垣がよく見えるのは、南西部の腰曲輪付近でしょうか。
本丸や二の丸には江戸時代の建物は残っておらず、ガランとした雰囲気の本丸で一番目立っているのは、最後の藩主の長男として生まれ、日露戦争に従軍・戦死した南部利祥中尉の騎馬像(跡の台座)。台座の大きさだけでも相当なものです。
若き当主の戦死は、戊辰戦争で朝敵となった汚名を晴らすものとして旧盛岡藩関係者の絶大な支持を受け、騎馬像を建立すべく盛岡藩出身の東條英教(陸軍中将。東條英機 の父)、原敬(政治家。第19代内閣総理大臣)、田中館愛橘(地球物理学者。東京帝大教授)、鹿島精一(実業家。株式会社鹿島組の初代社長)らが中心となって市民の賛同を集め、 製作にあたっては身体部分を新海竹太郎(No.282九段坂公園の大山巌像の作者 )、馬体を後藤貞行(皇居前広場の楠木正成像の馬体の作者)が受け持ち、台座は伊藤忠太(意匠)、横浜勉(設計)が担当するなど、当代の一流どころを集めた体制が組まれたということです。
妙に詳しいのは、これも国史跡としての保存管理計画にしっかりと書かれていたからです。
ただ、この中でよく分からないのは、馬体を受け持ったとされる後藤貞行が亡くなったのが1903年(明治36年)、南部中尉が戦死したのが1905年(明治38年)ですので、時代が前後してしまう点です。
当時はあちこちで軍人の騎馬像が建てられていますので、後藤作の原型が出回っていて、死後も使われていたのでしょうか?
No.235の福里公園で、山縣有朋の死から数年後に建てられた忠魂碑に山縣の書いた碑銘が使われていたことがありましたが、戦前のモニュメントづくりの流れ、常識的なルールなどがさっぱりわからないのでどうしようもありません。誰か詳しい人がいたら教えてもらわないといけません。
そのあたりもあってのことなのか、現地の解説板に後藤貞行のことはまったく触れられていません。
●現地の解説板
南部家42代・南部利祥は、日露戦争に従軍し、第1軍に属して各地に転戦したが、明治38年3月4日、満州井口嶺の激戦において戦死した。ときに陸軍騎兵中尉、年24才であった。この功によって功5級金鵄勲章を下賜された。
市民これを悼み、かつその功績は明治維新の際朝敵の立場に置かれた南部藩の汚名をそそいだものとして、5千数百名の賛同者集まり、帝室技芸員として著名な彫刻者新海竹太郎氏に委嘱し、利祥中尉騎乗姿を鋳造し、明治41年9月この地に建設したものである。しかるに昭和19年太平洋戦争の苛烈にともない軍需資材として供出され、今はその台座のみとなったものである。
昭和45年10月 盛岡市
ところで、この記事の冒頭から、公園名をわざわざカッコ書きで二つ書いているのは、二つ名前があるからです。
というのは「盛岡市の中心にあって、現在は盛岡市が管理する盛岡城跡が『岩手公園』なのは、観光客などに分かりにくい」という考え方に基づいて、2011年に市では都市計画決定、都市公園としての名称である「岩手公園」のほかに、公式愛称として「盛岡城跡公園」という名を定めているのです。
これは市民、議会、報道などを巻き込んで数年に及ぶ議論があった末のことと聞き及んでいます。
近年はネーミングライツ流行りで、公園でも何でも公共施設の名前があっさりと売り飛ばされる時代にあって、多くの方が「公園の名前」を真剣に議論したというのは、この公園に関心・愛着を持っている方がそれだけ沢山いるからだと理解しています。
そのほかにも、岩手公園絡みで市民の議論の的となることが幾つかあったのは知っているのですが、そういうことについて一つ一つ述べるブログではありませんので、今日のところはパス。
元は城内、現在は飲み屋街になっている桜山地区で昼飯を食ったということで。
●日本の都市公園100選、日本の歴史公園100選
(2013年4月訪問)
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