No.221はヤギの公園でしたが、本日はヨギの公園です。
沖縄では公共交通はバスがメインのため、いくつものバス路線が通ってターミナル的な役割を果たす交差点があります。そうした主要な交差点は土地の名前が付いた「○○十字路」と呼ばれていることが多く、その中のひとつ「与儀十字路」に面した公園が与儀公園です。
そういう場所柄のうえ、与儀公園の周りには県立・市立の図書館、那覇市民会館、赤十字病院や県立看護大学、沖縄県知事公舎などが集まっており、一帯は那覇の文化拠点の様相を呈しています。
与儀十字路の歩道橋から見下ろした公園の入口。
沖縄らしく、ヤシやシュロ、ガジュマルなどが多く植えられています。
園内に入ると大きな広場と野外ステージがあります。
以前は「デモといえば与儀公園」という感じで、ここに集まって県庁や市役所のある方まで歩いて行くのが定番でした。
ステージの横手は遊具広場になっています。
交通量の多い道路に面していてあまり落ち着かないせいか、子供の利用は少ない雰囲気で遊具も劣化が進んでいました。ここに限らず公園全体が古ぼけ気味なので、そろそろリニューアル時期が来ているように思います。周辺の文化施設などの建て替えにあわせて実施できればちょうど良いのでしょうが。
広場の北側には蒸気機関車D51。当然ながら沖縄を走っていたものではなく、本土復帰直後に「蒸気機関車を見たことがない沖縄の子供たちのために」と九州から贈られたものです。
戦前には沖縄にも鉄道があって蒸気機関車や電車が走っていたのですが、沖縄戦で破壊された後は復活しませんでしたので、40年前の子供たちは蒸気機関車を見たことがなかったのです。
以前に見た時はもっと古ぼけていたと思ったのですが、最近では2009年にペンキの塗り直しをしたようで、屋根もない割にはきれいに見えました。
●現地の解説板より 「D51 222静態保存の由来」
沖縄の本土復帰(昭和47年5月15日)を記念して、北九州市の日本国有鉄道門司鉄道管理局の有志の方々によって、沖縄の子供を招く運動が展開されました。そのとき那覇市内の小学校5・6年生72名が招待され、国鉄職員の里親のもとで、8日間の楽しい生活を送りました。
はじめてみる九州の自然や温かく迎えていただいた里親の心づかいに子供たちは感激するとともに、身近に見た蒸気機関車の巨大さ、たくましさにすっかり心を うばわれ、口々に機関車がほしいと言いだしました。それを聞いた里親である国鉄職員の方々は、鉄道のない沖縄の子供たちのために、何とか九州を走っている 実物の蒸気機関車を贈ろうということになりました。
ところが、鹿児島から海 上600キロメートル隔てた那覇へ重さ90トンのD51を運ぶことは高度の輸送技術と莫大な費用がかかりましたが、重量輸送について経験深い業者の協力 と、国鉄職員をはじめ全国の方々からの1千4百万余円の募金によって、無事の偉業が実現しました。
ここに展示されているD51 222は、このような経過のもとに贈られたものですが、関係各位の努力はもとより、沖縄を思う親愛の情の象徴としていつまでも大切に保存したいものです。
機関車の横の方には、門のような謎のモニュメントが。わざわざ間を通れるようにして点字ブロックまで付けているので、いったいなんなのだろうと近寄ってみると、どうも福祉都市宣言の関連モニュメントのようです。
なんとなく、2本で1つのアート作品なのに、後になってから行政サイドで「間を通れるのなら通路だから、点字ブロックが必要でしょ!」とか言って追加したような雰囲気があります。
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