209/1000 弁ヶ岳公園(沖縄県那覇市)

2012/12/15

沖縄県 社寺御嶽 身近な公園 那覇市

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琉球王国の時代、首里城の(霊的な)北の守りはNo.208の虎瀬公園がある虎瀬山でしたが、東の守りがこの弁ヶ岳公園のある弁ヶ岳でした。日の昇る東の方角であり沖縄の聖地である久高島が見える場所、さらに那覇市内最高峰ということもあって、琉球王国の時代から熱心な信仰の対象となっていたそうです。

また沖縄戦の際には、陸軍司令部が置かれた首里城の最終防御ラインの一翼を担うこととなり、トーチカなどが築かれました。

そのあたりは専門的な研究をしている方や詳しい方々に任せて、現在の弁ヶ岳公園について見てみましょう。

弁ヶ岳公園には、モノレールの首里駅から歩いて行くことができます。
たどり着いた公園北側の入口には、琉球石灰岩の堂々とした園名石のすぐ後ろに、いきなり東屋。公園内に入っていくためには、この横をすり抜けていかねばなりません。

東屋の横をすり抜けていくと、今度はいきなり森。
草に埋もれ気味ではありますが石畳の歩道が山上に向かって通じています。資料によれば、琉球王が弁ヶ岳の御嶽に参詣するために石畳道をつくったということが記録に残っているそうですが、この石畳道がそれなのか、後に公園として整備したものなのかはよくわかりません。

ざっと200mほどの石畳を上りきり、森を抜けたところで今度はいきなり一般道。
ただ山道を歩いただけで公園から出てしまいました。

道路沿いに少しだけ東に行くと、弁ヶ岳の大嶽があります。
門は一見するとコンクリートづくりで、伝統ある御嶽にしては少々寂しい気もしますが、沖縄戦で破壊された後にハワイ移民の方の寄附を得て、地元の皆さんの勤労奉仕で建てられたと聞くと許せる気がします。

道を渡って少し丘を登ると、こちらが小嶽。
大正末から終戦までは首里城内に奉られていた沖縄神社が移されています。

また、一般道沿いにも小さな園地と東屋がありました。
そこから久高島が見えるであろう方角を眺めてみましたが、残念ながらクリーンセンターの煙突くらいしかわかりませんでした。

こちらの東屋の脇から谷に下りていける道もありましたが、どこに通じているのかよくわからないので入っていくのはやめておきました。


●現地の解説板より『弁ヶ嶽』
1956(昭和31)年12月16日
沖縄県史跡指定
首里城の東方約1kmにあり、海抜は165.7mで、沖縄本島中南部では、最も高い峰の一つです。そのため、かつては航海の目標ともなりました。一般に「ビンヌウタキ」と呼ばれ、峰全体がご神体とされ、1945(昭和20)年の沖縄戦で、この地において激戦が展開されるまでは、琉球松などの大木が茂っていました。弁ヶ嶽は参詣道を挟んで、東側の小高い森になっている方が大嶽、西側の低い方が小嶽となっており、『琉球国由来記』(1713年)によれば、大嶽の神名は「玉ノミウデスデルカワノ御イベヅカサ」、小嶽は「天子(テダコ)」と記されています。王府時代、1・5・9月に国王が親ら(ミズカラ)訪れ、祭祀が行われました。また、沖縄戦で破壊消失した石門は、1519年に首里城歓会門前の園比屋武御嶽石門とともに築かれたといわれ、その構造や工法も似ていました。この石門は、1938(昭和13)年、国宝に指定されました。現在のコンクリートづくりの門は、1954(昭和29)年にハワイの「うるま一心会」からの寄付金を得て、首里鳥堀町民の奉仕によってつくられたものです。
また、かつては石門の前に、拝殿と呼ばれる建物がありました。
(2012年10月訪問)

【2020年11月追記】

近くに用事があって、何年かぶりに弁ヶ岳公園に立ち寄ってみました。
すると小嶽の横手の灌木が取り払われていて、久高島らしきものを望むことができました。

写真にするとわかりにくいですが、知念半島からは少し離れたところに、うっすらと島影が見えました。おそらくは久高島。そうだとすると、記事本文で「久高島が見えるであろう方角」と思った方角は、少し南にずれていたことになります。

まぁ、その時の展望台から眺められた方角の限界ということで、ご容赦を。


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