この田原坂、戦跡として名前は知れ渡っていますが、今まで国史跡にはなっていませんでした(そもそも明治のものが国史跡になること自体がまだ多くないのですが)。しかし、地元関係者の皆さんの発掘調査・文献調査等々の努力が実り、今年(2012年・平成24年)11月の文化審議会で、周辺の関連遺跡とともに「西南戦争遺跡」として国史跡に指定するように答申が出されました。
しかしながら城跡や集落跡などとは異なり、あくまで一過性の戦闘の場であった戦跡には、今ひとつ「誰が見てもパッとわかる」ものがあまり残されていないのも事実です。田原坂公園も、そこにあるのは慰霊碑であり、移設されてきた弾痕の残る家であり、資料館でありといったところで、そこへ行けば田原坂の攻防戦の状況が飲み込めるというものでもありません(地形はすごくよく残っているのですが)。
そこで史跡指定に先立つ10月に、田原坂を含めた周辺の関連史跡を巡るウォーキング大会が開催されました。田原坂を攻めた官軍側の陣地跡や本営跡、負傷者を治療した救護所、亡くなった方を葬った墓地・慰霊碑などを、発掘調査にも携わった専門家の案内を受けながら巡り、史跡への理解を深めようというものです。これに参加してきました。
道中は色々あったのですがそれは省略して、田原坂公園。
一番目立つのは慰霊塔。官軍、薩軍双方の戦没者の名前が刻まれています。なにぶん百何十年も昔の戦争なので、資料が不足して名前が漏れている方もいらっしゃる思われますが、資料が出てくれば順次追加されることでしょう。
慰霊塔のほかにも、慰霊碑、祈念碑の類が並びます。
シンボルツリー的な位置づけの大楠。いわゆる戦闘の生き証人です。
足下には美少年の像。戦を歌った民謡『田原坂』の歌詞「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂 右手に血刀左手に手綱 馬上豊かな美少年」にちなむものです。
こちらが弾痕の残る家。戦争は勇ましいものですが、近隣住民は家は焼かれる弾は撃ち込まれる、徴用されて荷物運びのあげくに流れ弾で死んでしまうのですからやりきれません。
資料館は現在建て替え中。建て替え予定地でも発掘調査がおこなわれている模様でした。
こちらが田原坂に向けて官軍が登ってきた坂道。ただしこの写真は、田原坂から見下ろした薩軍目線になっています。
おまけ。西郷さん。
●文化庁報道発表 平成24年11月16日 史跡等の指定等について
(2012年10月訪問)
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