また、市街地の公園にしては遊具が充実しており、いつも多くの子供たちで賑わっています。
さて、江戸時代の大坂は、行政的に南・北・天満の三郷に分けられていました。このうち、当時の淀川(現在の大川)の北側の地域が天満です。
天満の市街地には、舟運のため淀川から堀割が引き込まれていました。これが天満堀川で、現在の阪神高速守口線はほぼこの線上を通っています。
『初代長谷川貞信が描いた幕末・明治の大阪』より1863年の天満界隈 |
と、書きましたが、天満堀川が高速守口線と重なるような形になったのは(時代が前後した変な表現ですが)1838年のことで、それ以前はちょうど扇町公園の南側で行き止まりになっていました。それでこのあたりの字名を堀留といいます。
堀留まで行くと天満の町外れで未利用の湿地帯だったために、行き止まり部分に吹き溜まったゴミが堀端に積み上げられ山のようになっていました。昔の大阪ではゴミのことをゴモクと読んだため、付いた名前が「ゴモク山」であったと言います。
もっとも、これも堀川延伸によって水通りがよくなったために解消され、ゴモク山があったあたりには備前岡山藩の蔵屋敷が設けられました。
幕末の錦絵『浪花百景 堀川備前陣屋』に描かれていますが、新たに堀端には桜が植えられて名所となり、清水に屋形船が行き交う様は、幕末の地誌『浪華の賑ひ』に「げにその始めを知るものはそこにあらざるやと疑ふばかりの景地となれり」と記されるほどになりました。
ちなみに天満堀川にかかっていた「扇橋」が現在の町名の由来で、市電が走っていた頃には扇橋という電停がありました。扇橋というのは橋の形のことで、水路が交差する場所で三方に通じるようにY字型に架ける橋のことだそうです。
この岡山藩の屋敷が、明治になっていったん陸軍の兵営として使われた後、1882年に監獄が設置されます。4000人を収監できる大監獄でしたが、大阪駅や天満駅がつくられて周囲の市街化が進んだため1920年に堺に移転します。そしてついに、監獄が移転した後の1923年に扇町公園が開園します。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで見ると、戦前までは西半分に広場、東半分に疎林や園地などがあったようですが、1950年に改修されて西側に「市営大阪プール(旧・大阪プール)」が完成します(現在の公園内にある扇町プール、また八幡屋公園にある現・大阪プールとは別物です)。
この大阪プールは、国際規格の50mプールと飛びこみ用プールを備え、2万5千人が収容できる巨大なスタンドを持っていました。プールで収容人数2万5千人というのは今では考えられない大規模なものですが、当時は「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進が世界記録を連発していた時期なので、全国的に水泳ブームであったと言います。
それから時代は流れ、1997年開催の国体にあわせて老朽化していた大阪プールが解体(八幡屋公園に新しい大阪プールが開設)され、公園も再整備されます。それが今の扇町公園です。
ここまで来るのに長かった!
と言うことで、公園南側の入口付近には、競泳プールのスタート台を使ったモニュメント。
長年「スタート台をイメージしたモニュメント」だと思っていたのですが、朝日新聞の記事によると「扇町公園に残る旧大阪プールのスタート台」となっており、実際にプールに設置されていた当時の写真も出ていました。
こちらは現在の扇町プール。
最後の改修の際に、それまでのサブプールを全面リニューアルしたものだそうです。
現在の公園は南半分に大きな土の広場を取っており、その中を幅広の園路が突き抜けています。正直なところ、公園のための園路と言うよりは、堂山町方面と扇町駅、天満駅とを結ぶ通り抜けのための通路といった感じです。
公園の北側は小高い丘のようになっています。これがかつてのゴモク山に関係するものかどうかはわかりませんが、江戸末期からの土地利用の変遷を考えると、とくに関係ないだろうと思います。
この丘は、大型児童館「キッズプラザ大阪」に隣接しているため、それとの連携を考えて巨大な滑り台が並ぶ遊具コーナーにもなっています。
派手な色使いのクライミングウォールもありますが、こちらはおそらくキッズプラザの敷地でしょう。使う人にとってはどちらの敷地でもあまり関係のないことですが。
丘を渦巻きのように登っていける道もあり、てっぺんに登れば公園中を見渡すことができます。丘の途中の草むらの中には、所々に巨大なドングリ型のライトがありました。
そのほかに、普通のブランコや滑り台が並ぶ遊具広場もありますが、丘の部分と比べると人気薄のようでした。まぁそれはそうでしょう。
●朝日新聞 『旧大阪プール 聞こえる?あの日の水音』
(2012年9月訪問)
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