この公園のあたりは、軍記や講談(最近はゲームやマンガ)で知られた真田幸村と大坂冬の陣に因む古戦場なのですが、なにぶん400年も前の話で色々と混乱が起きているようなので、そこを整理する話から。
まず公園名にもなっている宰相山という地名は、明治の地図では字宰相山と記されており、1965年までは宰相山町という町名でした。
これは冬の陣の折に、真田幸村が守る「真田丸」を攻めた越前宰相・松平忠直が陣を置いたという伝承に因むと言われていますが、一緒に攻めた前田利常(前田宰相)の陣だったという説もあります。まぁ要はハッキリしないということです。
内務省大阪実測図(1888) 関連する字名を赤字で強調 |
ところが、その宰相山に行ってみると、公園のすぐ北隣にある三光神社(上の地図では姫山神社。1908年に改称とのこと)には堂々たる真田幸村の像と「真田の抜穴跡」なる洞窟があります。三光神社のサイトにも「真田幸村が此の地に偃月城と名付ける塁を定め、本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられ」と書かれており、越前67万石の大大名だった忠直卿の影も形もありません。
三光神社の鳥居 |
いくつか資料をあたって考えてみましたが、真田幸村が本格的に有名になったのは大坂の陣から何十年も経って軍記物や講談に取りあげられてからなので、その頃には実際に真田丸があった場所も忠直が陣を置いた場所もよくわからなくなっていたのではないかと考えます。
そこで、江戸時代の三光神社の関係者の方が幸村人気に目をつけて「わが神社こそが真田丸!」と打ち出したのではないでしょうか。なにぶん大坂なので、徳川家康の孫である忠直よりは家康に逆らった幸村の方が良かったのでしょう。
今も抜穴跡は派手に彩られており、とても秘密の抜け穴には見えない状況になっています。
真田の抜穴跡 |
なお、宰相山の西側にはかつての字真田山、南側には真田山公園もありますので、史実としての「真田丸」の場所はともかくも、このあたり一帯がなんとなく「真田山」と呼ばれていたのは想像されます。
もしかすると、田園調布とか帝塚山とか、ブランド感のある地名の付いたマンションが隣町にまで滲み出してくる現象のようなものが起きていたのかも知れません。
そんな「なんとなく真田山」に史跡がもう一つ。真田山陸軍墓地です。
ここも成立初期から、墓地内にあった招魂社は「真田山招魂社」と呼ばれていたそうで、明治の頃には宰相山ではなく真田山で通っていたと思われます。
真田山陸軍墓地は、明治初めにわが国初の陸軍墓地として作られ、西南戦争、日清・日露戦争、太平洋戦争までの間に亡くなった陸軍関係者が多く葬られています。
慰霊の場ではありますが、軍での階級に応じて同じ規格で整然と並べられた墓石は、景観的にも見るべきところがあります。
ちなみに小さいのは兵卒や軍役の墓、大きいのは将校や士官の墓ですが、日露戦争あたりから戦没者が多くなりすぎたために個人墓は止めて合葬墓になり、ついに太平洋戦争の頃には納骨堂になりました。
納骨堂(忠霊堂) |
現在では墓地全体、とくに崩れやすい砂岩で作られた小さい墓石の傷みが激しいということで、国史跡指定などの手法で保存を図るための活動が進められています。
巨大な将校の個人墓 |
さて、前置きが長くなりました。
現在の宰相山公園(ここまでは、神社も墓地も公園の外の話でした!)ですが...小さな広場のほかは、ほとんど何もありません。
山の東南側の端で三光神社と真田山墓地、周りの道路とを結びつけるような位置に置かれており、どのあたりが神社や墓地との敷地境界になるのかもハッキリと分からない構造ですので、どちらかと言えば通路のような役割のために置かれた公園なのではないかと思われます。
(2012年7月訪問)
余話。
返信削除2013年7月に放送されたNHKの『歴史秘話ヒストリア』を見ていたら、「三光神社の抜け穴跡など、大阪市内に幾つか残る『真田の抜け穴』という言い伝えのある穴は、徳川方が城攻めのために掘った塹壕ではないか」という説が紹介されていました。
●NHK歴史秘話ヒストリア「発掘!真田幸村の激闘~最新研究から探る 大坂の陣~」
>http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/172.html