この場所には敗戦までは陸軍の施設が置かれており、この頃は宮跡であることはわかっていませんでした。
戦後まもなく建物の遺物が見つかり、それをきっかけに発掘調査が進んだものの市街地にある一等地だったためにあれこれと開発の手が伸びましたが、なんとか1964年に遺跡の中心部が国史跡として保存されて現在に至っています。
史跡区域の土地が市有化され、史跡整備(史跡公園化)が進められたのは1970年代からです。
ちょうどこの時期は奈良の平城宮跡でも同じような整備が動いており、この二つを通じて、今日でも各地の史跡、とくに都城や官衙跡、寺院跡などで使われる色々な「地下にあって見えない遺跡を地上部で表現するための手法」が開発・普及されていきました。
それは例えば、難波宮跡でいえば、大極殿の基壇部分だけを復原したり、
背景のビルが重なっていますが、手前が大極殿の基壇 |
柱の礎石はそれっぽく露出させて並べてみたり、
基壇上部の柱跡 |
柱の位置・大きさをスツールのような丸い石で表現したり、
真ん中の列のところに壁があり、その両側が屋根付きの廊下になります |
八角形の建物跡は八角形のパーゴラとして表現したり、
擬装したトーチカのようです |
前期と後期、二つの時期の遺構の表現を盛土・切土で高低差をつけることで表現したり、
この写真ではわかりにくいですが、現地に行って見ていただければ... |
といったものです。
こうした表現手法は、平城宮跡の朱雀門や第一次大極殿のように建物復原をおこなったものと比べるとわかりにくいとは思いますが、逆に「こういうことを表現しているんですよ」という説明があれば、種明かしみたいな面白さもあると思います。
それに建物復原にはお金もかかりますので...(平城宮跡の第一次大極殿の工事費は180億円ほどかかっています)
平城宮跡の第一次大極殿。下にある白いところが基壇 |
地下の遺構を保護する目的で根を深く張る高木を植えていないため、現在の公園は「都心にしては変に広い草っぱら」の真ん中に、「芝居の稽古に使えるステージ(大極殿基壇)」があるようにしか見えないかも知れませんが、ちょっと教えてもらって地下に埋まっている遺跡のことに思いを馳せるのも楽しいでしょう。
●大阪文化財研究所 難波宮インフォメーション
●大阪観光コンベンション協会による紹介ページ
●「大阪あそ歩」孝徳帝の夢のあと・難波宮ロマン紀行(PDF)
(2012年8月訪問)
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