公園の設計は、東京府(当時)の公園係長であった長岡安平。わが国の公園デザインの先駆者です。
その後の震災、戦災、近年の改修などによって長岡安平が設計した姿はまったく残っていませんが、公園の入口には歴史を語るプレートが置かれています。
“SINCE 1889”が誇らしげなプレート |
この明治の頃の様子を描いた錦絵のタイルもあり、そこには中央に盛土をして東屋を設け、四方の花木を眺められるような公園の姿が描かれています。
また、当時の資料によると公園内に民営の茶店を出店させたり、盆栽などの展示即売場の設置を許可したりと、今日の用語でいえば「民間活力の導入による公園経営」を志向したところもあったようですが、行政内部から「公園が雑然とする」との声も大きかったようです。
明治中頃の坂本町公園の図 |
そんなこともあって一部改良が行われたようなのですが、1923年(大正12年)の関東大震災によって公園は全焼します。そのため周辺の区画整理とあわせて洋風の公園として生まれ変わります。小学校と消防署に挟まれた現在の姿の原形は、この時にできたものです。
ちなみにこの時の設計は井下清。こちらも東京市(当時)の職員として多くの公園の設計に関わった先駆者です。
関東大震災からの復興整備時の平面図(『日本公園緑地発達史』より) |
しかしこの状態も東京大空襲によって焼失、1953年(昭和28年)に復旧、1997年(平成9年)にも再整備されるなどして、現在の公園の姿はこんな感じ。
中央部に広場を取り、西側に遊具広場、築山&東屋が設けられています。
広場部分。奥に小学校、右手に築山 |
小学校に近い園路沿いには、関東大震災からの復興の際に設置された子供の像があります。当時の平面図にも「水栓及塑像」と描かれていますが、現在の噴水池とは形が異なりますので像だけが当時のものだと思われます。
子供の像 |
阪本小学校とは今もドア1枚だけのお隣同士です |
遊具広場の中央にはホネガイのような巻き貝型の滑り台。非常に美しいシルエットで、存在感があります。
遊具広場全景 |
滑り台の足元は円形の砂場です |
公園の西側にはサクラの植えられた築山があり、その上に東屋が設けられています。このあたりは明治のデザインをイメージしたものかと思われます。
築山と東屋 |
■公園前のプレートに書かれた公園の紹介文
坂本町公園は、明治22年(1889年)に 東京における最初の市街地小公園の先駆けとして、この地(旧日本橋区坂本町)に開園した。開園当時は、樹木うっそうとし風雅な涼亭を備えた和風庭園だったが、関東大震災によって全焼し、震災後避難民収容施設、仮校舎等の敷地に使用され、非常時における都市公園の機能が十分発揮された。その後復興事業により区画整理され、小学校と公園とが一体的に利用できる、児童コーナーを設けた洋風の公園になった。太平洋戦争時、 東京大空襲によって再び焼失。戦後、戦災者用仮設住宅の敷地として使用され、その後児童公園として、様々な改良整備が行われ現在の公園になる。
●震災復興52小公園に詳しいページ
●神奈川大学 関東大震災・復興データベース
●中央区立阪本小学校のページ
(2012年8月訪問)
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