昔から橋のたもとには小さな空地がありました。
例えば下の図のような位置にあり、色々と呼び名はありますが、土木関係では「橋詰広場」と呼ぶことが多いようです。
できた理由はよく知りませんが、おそらく今ほどの架橋技術がなかった時代に橋の両端を支える橋台を川側に張り出して少しでも橋を短くしようとしたことや、道と橋が単純に直行しているよりは接続部が斜めにカットされている方が歩きやすいなどの理由でできたものだと考えます。
もともとはそうした必要性に迫られて生まれた空地だったものが、人が集まりやすいことから高札場(お触れ書きを掲示する場所)になったり大道芸人や辻売りが集まったりと、特徴的なオープンスペースとなってきました。
さて、以前に東京の神田川沿いを歩いていた時に、やけに橋詰広場が多いことに気づきました。
それも他の町では歩道と一体化されていて「少し幅広の歩道」くらいのことが多いのに、東京の橋詰広場は歩道とは境界を設け、樹木を植えたり遊具を置いたりしていて、ハッキリと公園・広場であろうとしていました。また、橋詰の4箇所それぞれに広場が整備されていたのも印象的でした。
そこで調べてみると、それらは関東大震災からの復興に際して計画的に整備された橋詰広場ということでした。計画の目的とか現状とかは、都市計画や土木の研究者が書いたレポートをネット上で見ることができますので、「橋詰広場」で検索してみてください。
ということで、亀島川(江戸時代には越前堀と呼ばれた)に架かる南高橋の橋詰広場です(上流側右岸)。前書きが長かった割には、ここで注目は広場そのものよりもスツール。
明治時代に造られた橋を再利用した美しい南高橋のたもとに、なにか非常に抽象的な顔立ちのスツール群が並んでいました。このデザインのスツールはほかでも見たことがあるような気がするのですが、顔のバリエーションがどれくらいあるのかはわかりません。
(2012年8月訪問)
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