この被服廠が移転した跡地を東京市(当時)が取得して公園を整備しようとして工事を始めた矢先、1923年の9月1日に関東大震災が起きました。
ここが広大な空き地になっていることを知っていた市民は家財道具を積んだ馬車・荷車とともに避難してきましたが、空き地の外からの飛び火が家財道具に燃え移り、発生した火災旋風(炎を伴う強烈な上昇気流)でほとんどの避難者が亡くなりました。
当時の調査などによれば被服廠跡地だけで38000人が亡くなっており、これは関東大震災の死者・行方不明者約10万5000人の36%に及びます。記録写真を見ると、まさしく死屍累々の一言で、跡地内の見渡す限りにご遺体が折り重なっています。
●国立科学博物館 地震資料室が公開している当時の写真
なぜ被服廠跡地で多数の犠牲が出たかという理由については十分に究明されてはいませんが、四方から火災が押し寄せる中、避難者が持ち込んだ家財道具などの可燃物に飛び火し、それが周囲の火災による強風で急激に延焼したことなどが一因と考えられています。
また、現在の公園計画的な視点から私が勝手に想像すると、下町にはほかに大きなオープンスペースが無かったため許容量を超える避難者が集まったこと、工場跡だったために延焼防止に役立つ樹木がなかったことなども一因となったのではないかと思います。もっとも上の国立科学博物館の写真を見ると、隣接する安田邸では焼け焦げた樹が写っていますので、とにかく火災が尋常ではなかったというのが最大の理由だとは思いますが。
さて、ご遺体はその場で火葬されて仮の慰霊堂に収められ、1930年には復興記念の場としての公園と伊藤忠太設計の震災記念堂が完成、1931年には復興記念館が完成し、横網町公園は関東大震災の記録・記憶を留めるための場となるはずでした。
ところが太平洋戦争末期の東京大空襲で大きな被害を受けなかった記念堂は、新たに空襲被害者の遺骨を受け入れることとなり、名称を「東京都慰霊堂」と改めて現在は震災と戦災の二つの記念公園となっています。
これについて、当時の様々な事情があってのことだとは思いますが、今に生きる私はもったいないことだと考えます。それは、震災で直接的な大被害があった場所としての記憶が、後から載ってきた戦災の情報によって上書きされてしまった感があるからです。
「歴史の重層性」は当然のことですので上書きも仕方のないことかも知れませんが、東京には関東大震災を明確に記念する公園や記念館が他にありませんので、震災から得られた教訓を後の世の防災に活かすために、できれば震災と戦災とは別々の扱いで記念・慰霊して欲しかったと思います。
ということで、現在の公園。
中心となる慰霊堂はコンクリート製の近代社寺風のつくり。年2回の法要は仏式のものだそうです。
慰霊堂 |
復興記念館。こちらも伊藤忠太の設計によるものですが、慰霊堂とは違ったデザインの2階建てです。
震災だけでなく、戦災関連の資料も展示されています。
復興記念館 |
復興記念館の屋外ギャラリー。
公園の周囲で震災被害を受けた物品が展示されています。手前に見える焼け溶けたモーターなど、火災被害の甚大さがわかります。
幽冥鐘。震災後に中国の有志から贈られたもの。今は柵で囲まれています。
空襲犠牲碑。碑とは言いますが、屋上に花壇を備えた小さな建物になっています。
2001年に建てられたもので、施設内には「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。
震災遭難児弔魂像。戦時中の金属供出で持って行かれ、戦後に作り直されたものです。
こんな記念の品まで持っていってしまうというあたりで、戦争のバカさ加減を表現しているとも言えます。
朝鮮人犠牲者追悼碑。1973年に建てられたものです。
北門から園内のイチョウ並木。
日本庭園の片隅には、近くの町会による戦災慰霊碑も。
石原町の皆さんの慰霊碑だそうです |
いちおう遊具広場もありますが、公園の性格からして不要だと思いました。
●横網町公園のページ
(2012年8月訪問)
読売新聞の記事によれば、関東大震災から90年の今年(2013年)、復興記念館の館内展示がリニューアルされることになったそうです。
返信削除東日本大震災もあったことですし、よいタイミングではないかと思います。
●歴史学習が「想定外」をなくす
>http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/columnnational/20130507-OYT8T00730.htm