その昔、江戸城とには各方面の主要街道と結ぶ大きな出入口が5つあり「江戸五口」と呼ばれていたそうです。そのうち、奥州街道と繋がるのが常盤橋口で、城の防御施設である枡形の外に日本橋川が流れ、そこに橋が架かっていました。
橋と城門は1873年(明治6年)に取り壊されましたが、付近での都市開発が進むとともにやっぱり不便になったため、1877年(明治10年)に石橋として架け替えられます。これが現在も残る歩行者用の常磐橋(ときわばし)です。
その後、この橋は関東大震災で大きな被害を受けたために通行止めになり、1926年(大正15年)に約70m下流に自動車も通る新しい常盤橋が架けられます。これで交通の不便は解消されたのですが、壊れた旧常磐橋が放置されたままになっているのを見かねた人たちからの運動があり、昭和3年(1928)に橋・門跡が旧法下での史跡指定を受けます。
文化庁の文化遺産オンラインによれば、”江戸城大手門筋ノ外郭正門ナリ門ハ維新後取壞サレテ石壘ノミヲ現存セルモ舊規見ルベキモノアリ外郭ニ架セル常盤橋ノ明治十年洋式石橋ニ改造セラレシモノナリ”とあります。
その後、この2つのときわ橋に挟まれた場所が、渋沢栄一を顕彰する銅像の設立場所として選ばれ、民間団体から銅像と公園整備資金が東京市に寄付されて、1933(昭和8年)に開園したのが、現在も続く常盤橋公園です。
歴史の起こりからすれば常盤橋が先ですが、公園となった経緯は渋沢栄一の銅像があってのこと。2024年(令和6年)7月に新一万円札が発行される少し前に訪ねたので、とくに盛り上がっていませんでした。
銅像そのものは、戦前に一度建てられたものが戦時中の金属供出で持っていかれて、1955年(昭和30年)に建て直したものだそうです。
■碑文より青淵澁澤榮一翁は、天保11年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應3年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。歸朝後大蔵省に任官して諸制度の改革に當ったが、明治6年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導育成に任じ關與した會社500、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實踐し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために92歳の高齢に達するまで盡力し、昭和6年11月11日に逝去した。翁の歿後 財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和8年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉文夫氏に製作を依嘱し、舊位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。(昭和30年11月 澁澤青淵記念財団龍門社)
銅像のイシロに城門時代の石垣の名残があって、
さらにその後ろが、こんな感じの石張り舗装の広場になっています。
ちなみに、銅像の横手の方に石造物がいくつも置かれていますが、これは古い方の常盤橋や周りの枡形が東日本大震災で傷んだために、修復作業を行なった時に出土した遺物や再利用できなかった石材などを仮置きしているスペースらしいです。
素人が見ても何がなんやらわかりませんが、きっと大事なものなのでしょう。
そして修復された常磐橋の上から、仮置き場や、銅像後ろの石垣の方を眺めます。色々な時代、色々な積み方の石垣が並んでいて、なかなか面白い景色です。
そして、コンクリート製の常盤橋から渋沢栄一の銅像を眺めます。間に仮置き場が入るので、少しゴチャッとした景色になっていますが、それが解消されれば、銅像がもっと引き立つ景色が戻ってくることでしょう。
橋の名前に常磐と常盤とが交じっているので、書き間違えないようにするのが大変な常「盤」橋公園でした。
(2024年3月訪問)
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